安土城炎上は本当に6月15日?

本能寺の変の後に起きた安土城炎上の日付は、通説では6月15日とされていますが、疑問を持ったのでこの炎上日について考えてみます。

6月15日の根拠とされるのは、京都にある吉田神社の神主 吉田兼見の『兼見卿記』です。
『兼見卿記』の天正10年6月15日条には、「安土放火云々」と書いてあるのです。

 

『兼見卿記(別本)』 (天正10年6月)

十五日、壬申、安土放火云々、自山下類火云々、三七郎殿為御礼差下侍従了、水無瀬兵衛督同道也、此人別而三七郎殿御入魂也、今度之儀委細申水無瀬了、更以不苦由被申了、三七郎殿へ帷一、持参、慥申来云、向州於醍醐之辺討取一揆、其頸於村井清三、三七郎殿へ令持参云々、申下刻侍従皈、於江州草津申御礼、仕合能之由申了、水無瀬馳走也、侍従云、向州事秘定也、於路次見之由申訖、坂本之城、天主放火云々、高山次右衛門付火切腹云々、 


しかし、この内容から炎上は前日の14日に起きたように感じました。

上記のように6月15日条の先頭に「安土放火云々」と書いてあるわけですが、日記には長い続きがあります。

要約すると、息子の吉田兼治が織田信孝へ御礼のため帷子(カタビラ)を持参し、織田信孝の顔見知りである水無瀬親具とともに、京都から草津へ出発します。
草津に着いた吉田兼治は、明智光秀が醍醐周辺にて一揆に討ち取られたこと、光秀の首級は村井清三が持ってきたことなどを、織田信孝から聞きます。
そして申の下刻(申の刻は春秋は15~17時ですが、夏時刻なので申の下刻は17時~18時頃)に戻り、御礼は事が上手く進み、水無瀬親具の協力のおかげであること、
近江の事は秘定(秘密?)であること、(夜に)坂本城の高山次右衛門が火をつけ坂本城が炎上したことが書かれています。

吉田神社から草津への距離は約25km、往復で50kmとなります。

その時間は徒歩で10時間、馬の常歩(なみあし)で8時間程度かかるので、夕方の帰宅であれば午前中に出発したと推測することができます。

草津でどのくらい滞在したのかは不明ですが、仮に1時間滞在とすれば朝8~9時に吉田神社を出発したことになります。

安土城の炎上を書いたのは吉田兼治が出発する前ですから、炎上の情報は朝に入ったと考えることができます。

 

もし15日の早朝に安土城が炎上しても、その情報が50km先の朝8~9時に届くのは無理があると思います。

となれば、前日6月14日の安土での出来事が、翌6月15日の午前中に京都に届き書かれたのではないかと推測します。

 

一方、『甫庵太閤記』の記述では安土城は6月14日の未明に炎上しているので、翌15日朝に京へ届いたなら情報伝達に24時間以上かかっており、逆に伝わるのが遅いことになります。

ただ、明智秀満は14日未明に安土城を出て街道を南下、(おそらく昼頃に)大津で秀吉軍の堀秀政と交戦します。

6月14日はこのような状況ですから安土から京へ向かう人々の往来もままならず、情報が伝わるのが遅くなったと推測することはできます。

『多聞院日記』では何度も行われた信長の上洛(午後2時頃の上洛が多い)は40km先の奈良に翌日になってから伝わっています。

使者を派遣しない自然に広がる情報は意外と伝わるのが遅いことが多いので、安土城炎上は6月14日ではないかと考えています。

 

※なお、安土城の炎上した範囲は山頂の主郭部のみであることが調査で判明しています。山麓や山腹は焼けていません。
兼見卿記では「山下類火(山下からのもらい火)」のように書かれていますが、調査からそれは無さそうです。

安土放火犯の史料

次に安土城の放火犯について考えてみます。

説は様々あり、『氏郷記』に書かれている明智秀満説、フロイスが書いた織田信雄説、略奪に入った土民説(これは出典はないと思われる)などが考えられています。

 

『氏郷記』は作り話もある軍記物という書物なので、信憑性は低いとされています。そのため近年ではフロイスの一文が注目されていました。

ただ2015年に出版された『明智一族 三宅家の史料』には明智秀満の子孫による覚書(江戸中期成立)が残されていて、明智秀満が放火したことが書かれています。

 

この覚書には、山崎の戦いで光秀が敗れた報せが届くと安土の兵は逃亡して700ほどになり、明智秀満安土城に火を懸けて坂本城へ移った、と書かれてあります。

『氏郷記』のみでは説得力が足りませんが、明智秀満蒲生氏郷という現場にいた人物の子孫や家臣の文献が一致しているのであれば、明智秀満の可能性が高いと感じました。

 

『氏郷記』は1634年/寛永11年成立と言われ、まだ蒲生家の言い伝えが残っている古い時代の伝記なので、仮に物語が書かれたとしても、安土城に火をつけた人物を別の人物に差し替えることはしない気がします。
蒲生賢秀が放火したのであれば別の人物にすり替えそうですが、それはないでしょう)

 

また、上記の『甫庵太閤記』と『家忠日記追加増補』も明智秀満が火をつけたことになっています。

結果として、城を退去する際に敵に財宝を渡さないための当時よく行われた自焼ではないでしょうか。

本能寺の変翌日の6月3日に蒲生賢秀が信長の家族を避難させる際も、信長の御上衆(信長の妻 濃姫か?)は金銀を奪ってから安土城に火を懸けるよう命じています。(この時は蒲生賢秀が畏れ多いとして実行されませんでしたが)

当時としては自焼はごく当たり前の行動かと思います。

 

宣教師による織田信雄説も可能性はゼロではありませんが、明智勢に勝利した後に奪還した本拠を敢えて燃やす理由がわからないので、こちらは理解しにくいですね。
この説は伝聞のため、誤った情報が宣教師の元へ届いたのかと思います。

 

以上が安土城の日付、放火犯の考察でした。

 

 

※上記で紹介した『明智一族 三宅家の史料』ですが、この覚書には面白い記述があります。

時間を遡って明智秀満が本能寺を急襲した際、秀満の兵は「織田信忠様が謀反により光秀が御味方に参った」と門番に嘘を伝えて門を開けさせた、と書かれています。

三河物語』には謀反が起きた時、信長は「信忠が別心か」と発言したとありますが、このことを書いたのかもしれません。

嘘を言って門を開けさせることはありそうですからね。