山崎の戦いは本当に午後4時開戦?

山崎の戦いの開戦は夕刻という情報が世間では通説のようになっていて、Wikipediaでも午後4時頃となってます。
『兼見卿記』(作者は京都吉田神社の神主 吉田兼見)には「申刻(15~17時)」との文字があるのでそれが定着したことは想像できますが、よく文章を読めば申刻は開戦時刻ではないことがわかります。

 

『兼見卿記』の山崎の戦いに関する日記にはこう書かれています。
「十三日 己亥 雨降 申刻至山崎表鐵放之音數刻不止、及一戰歟」

私の訳文では、
「十三日 己亥 雨 申の刻、山崎方面で鉄砲の音が数刻鳴り止まない、一戦に及んだか」です。

15~17時頃(夏時刻のため実際は少し遅く16時~18時頃)、鉄砲の音が数刻(一刻は2時間)続いている、ということは数刻が三刻(6時間)としても、午前中や正午頃から鉄砲の音が聞こえていることになります。

もし「自申刻」と書いてあれば「申刻より数刻鳴り止まなかった」となるのですが、そうは書いていません。

『兼見卿記』では時刻を書いていることがよくあり、例えば「正午頃から」であれば「自午刻」と書いています。

そのため、「申刻」のみだと午後4時頃に起きた事、感じた事を書いているので、その時点で数刻鳴り止んでいない、という意味になります。

(もちろん吉田兼見は神主という立場なので、祭礼や神事の準備や執行、公家との交流も多く来客対応が日記でよく書かれています。外出している際の出来事は、帰宅してから書いたと思われます。)

 

また『フロイス日本史』では京都の修道院にいた宣教師が、午後2時ごろ、敗走する明智軍の兵を目撃した。その通過には2時間以上を要した。と書いています。

山崎から京都の南蛮寺までの距離約15kmを、兵の逃亡状態の速度を時速8kmとすると約2時間です。
ちょうど正午頃に敗北となったかもしれません。

フロイス日本史の伝聞情報は信憑性が微妙なこともありますが、このような宣教師が直接見た報告に関しては、一転して信憑性が非常に高くなります。
(信長を討った後、光秀が宣教師に語った「このような成果を収めたことを歓喜せよ」という言葉も生々しいです)

 

また秀吉の勝利は聖母の祝日(13日)の正午にもたらされた、と書かれています。
(かなり早い情報伝達ですが、伝わった場所はどこでしょうか。山崎から近い高槻城の宣教師が聞いた情報かもしれません。)

そして同日午後に光秀は勝竜寺城に入ったこと、秀吉全軍が城を包囲したこと、闇夜に紛れて光秀は勝竜寺城を出て、聖母の祝日はいずこに身を隠したかわからない、と書いています。

『惟任退治記』でも夜に勝竜寺城を包囲した秀吉の兵は昼の合戦で疲れており、と書いているので戦いは昼としています。
ここでは夜に対して明るい時間帯を昼と表現している可能性はありますが、上記の信憑性を補強することができます。

 

以上から、山崎の戦いの合戦時刻を推定してみます。
別の記事でも書きましたが、合戦の経過から交戦時間は比較的短いと思われるため、開戦が午前11時、そして明智軍の総崩れは正午頃としたいと思います。

安土城炎上の日付でも『兼見卿記』の解読がポイントとなりましたが、山崎の合戦時刻も同様に丁寧に文章を読み込むことで、通説とは異なる解釈や真実が見えてくるように思います。

 

安土城炎上は本当に6月15日?

本能寺の変の後に起きた安土城炎上の日付は、通説では6月15日とされていますが、疑問を持ったのでこの炎上日について考えてみます。

6月15日の根拠とされるのは、京都にある吉田神社の神主 吉田兼見の『兼見卿記』です。
『兼見卿記』の天正10年6月15日条には、「安土放火云々」と書いてあるのです。

 

『兼見卿記(別本)』 (天正10年6月)

十五日、壬申、安土放火云々、自山下類火云々、三七郎殿為御礼差下侍従了、水無瀬兵衛督同道也、此人別而三七郎殿御入魂也、今度之儀委細申水無瀬了、更以不苦由被申了、三七郎殿へ帷一、持参、慥申来云、向州於醍醐之辺討取一揆、其頸於村井清三、三七郎殿へ令持参云々、申下刻侍従皈、於江州草津申御礼、仕合能之由申了、水無瀬馳走也、侍従云、向州事秘定也、於路次見之由申訖、坂本之城、天主放火云々、高山次右衛門付火切腹云々、 


しかし、この一日の出来事を読むと、炎上は前日の14日に起きたように感じました。

上記のように6月15日条の先頭に「安土放火云々」と書いてあるわけですが、日記には長い続きがあります。

要約すると、吉田兼見の息子 吉田兼治が織田信孝へ御礼のため帷子(カタビラ)を持参し、織田信孝の顔見知りである水無瀬親具とともに、京都から草津へ出発します。
草津に着いた吉田兼治は、明智光秀が醍醐周辺にて一揆に討ち取られたこと、光秀の首級は村井清三が持ってきたことなどを、織田信孝から聞きます。
そして申の下刻(申の刻は春秋は15~17時ですが、夏時刻なので申の下刻は17時~18時頃)に戻り、御礼は事が上手く進み、水無瀬親具の協力のおかげであること、
近江の事は秘定(秘密?)であること、(夜に)坂本城の天守が放火され、高山次右衛門(光秀家臣といわれる)が火をつけ切腹したらしいと書かれています。

吉田神社から草津への距離は約25km、往復で50kmとなります。

その時間は徒歩で10時間、馬の常歩(なみあし)で8時間程度かかるので、夕方の帰宅であれば午前中に出発したと推測することができます。

草津でどのくらい滞在したのかは不明ですが、仮に1時間滞在とすれば朝8~9時に吉田神社を出発したことになります。

安土城の炎上を書いたのは吉田兼治が出発する前ですから、炎上の情報は朝に入ったと考えることができます。

 

もし15日の早朝に安土城が炎上しても、その情報が50km先の朝8~9時に届くのは無理があります。

となれば、前日6月14日の安土での出来事が翌6月15日の午前中に京都に届き、書かれたと考えるのが自然に感じます。

 

一方、『甫庵太閤記』の記述では安土城は6月14日の未明に炎上しているので、翌15日朝に京へ届いたなら情報伝達に24時間以上かかっており、逆に伝わるのが遅いことになります。

ただ、明智秀満は14日未明に安土城を出て街道を南下、(おそらく昼頃に)大津で秀吉軍の堀秀政と交戦します。

6月14日はこのような状況ですから安土から京へ向かう人々の往来もままならず、情報が伝わるのが遅くなったと推測することはできます。

『多聞院日記』では何度も行われた信長の上洛(午後2時頃の上洛が多い)は40km先の奈良に翌日になってから伝わっています。

使者を派遣しない、自然に広がる情報は意外と伝わるのが遅いことが多いので、安土城炎上は6月14日ではないかと考えています。

 

※なお、安土城の炎上した範囲は山頂の主郭部のみであることが調査で判明しています。山麓や山腹は焼けていません。
兼見卿記では「山下類火(山下からのもらい火)」のように書かれていますが、調査結果からそれは事実ではなさそうです。

安土放火犯の史料

次に安土城の放火犯について考えてみます。

説は様々あり、『氏郷記』に書かれている明智秀満説、フロイスが書いた織田信雄説、略奪に入った土民説(これは出典はないと思われる)などが考えられています。

 

『氏郷記』は作り話もある軍記物という書物なので、信憑性は低いとされています。そのため近年ではフロイスの一文が注目されていました。

ただ2015年に出版された『明智一族 三宅家の史料』には明智秀満の子孫による覚書(江戸中期成立)が残されていて、明智秀満が放火したことが書かれています。

 

この覚書には、山崎の戦いで光秀が敗れた報せが届くと安土の兵は逃亡して700ほどになり、明智秀満は安土城に火を懸けて坂本城へ移った、と書かれてあります。

『氏郷記』のみでは説得力が足りませんが、明智秀満と蒲生氏郷という現場にいた人物の子孫や家臣の文献が一致しているのであれば、明智秀満の可能性が高いと感じました。

 

『氏郷記』は1634年/寛永11年成立と言われ、まだ蒲生家の言い伝えが残っている古い時代の伝記なので、仮に物語が書かれたとしても、安土城に火をつけた人物を別の人物に差し替えることはしない気がします。
(蒲生賢秀が放火したのであれば別の人物にすり替えそうですが、それはないでしょう)

 

また、上記の『甫庵太閤記』の他には、『家忠日記追加増補』も明智秀満が火をつけたことになっています。

結果として、城を退去する際に敵に財宝を渡さないための当時よく行われた自焼ではないでしょうか。

本能寺の変翌日の6月3日に蒲生賢秀が信長の家族を避難させる際も、信長の御上衆(信長の妻 濃姫か?)は金銀を奪ってから安土城に火を懸けるよう命じています。(この時は蒲生賢秀が畏れ多いとして実行されませんでしたが)

当時としては自焼はごく当たり前の行動かと思います。

 

宣教師による織田信雄説も可能性はゼロではありませんが、明智勢に勝利した後に奪還した本拠を敢えて燃やす理由がわからないので、こちらは理解しにくいですね。
この説は伝聞のため、誤った情報が宣教師の元へ届いたのかと思います。

 

以上が安土城の日付、放火犯の考察でした。

 

 

※上記で紹介した『明智一族 三宅家の史料』ですが、この覚書には面白い記述があります。

時間を遡って明智秀満が本能寺を急襲した際、秀満の兵は「織田信忠様が謀反により光秀が御味方に参った」と門番に嘘を伝えて門を開けさせた、と書かれています。

『三河物語』には謀反が起きた時、信長は「信忠が別心か」と発言したとありますが、このことを書いたのかもしれません。

嘘を言って門を開けさせることはありそうですからね。

世間には全く知られていない情報ですが、これは真実では?と想像するのが楽しい記録です。

 

本能寺の変 明智憲三郎氏の説についての批判

2026.2.24更新

近年、本能寺の変は明智憲三郎氏の『本能寺の変431年目の真実』が認知されるようになってきました。

大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は明智光秀ですから、時代考証ではありませんが筆者も話題になっています。

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私は以前からこの書籍の内容が当時の史料と合わない部分があると指摘してきました。

筆者のブログにも何度かコメントさせていただきましたが、筆者の主張が変わることはなく、ブログで私のことを残念な人呼ばわりされてしまいました。

そこで私はこのサイトを立ち上げて筆者への反論を整理し、また戦国関連の書籍を見てもあまり行われていない(※2019年時点)、軍隊や使者の移動速度・距離という視点から本能寺の変を検証してみたいと思います。

(この記事は非常に長くなっております。お時間のある時にゆっくり読んでいただければ幸いです)

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