伊賀越えルートを史料から検証する

2023.7.29更新

伊賀越えのルートは史料によって違いがあり、諸説あるので史料を基に考察してみたいと思います。

天正10年(1582年)の信長による武田攻めの後、信長は帰還する際に徳川領で接待を受けます。

そのお礼として、信長は家康を招待して京都や堺で遊覧をさせますが、そこで6月2日の早朝に本能寺の変が起きてしまい、家康一行は急遽帰国することになりました。

まずは家康が変の一報を知る場面ですが、その内容は『茶屋由緒記』に詳しく書かれています。

(『茶屋由緒記』はご先祖を讃える後世の由緒なので信憑性は微妙ですが、内容がリアルなのと、『石川忠総留書』のルートに合うためこの部分は信用しています)

 

まずは別の記事で作成した、堺~飯盛山~京都周辺の地図になります。

※『石川忠総留書』に基づく飯盛山までの想定ルート。

 

『茶屋由緒記』によると家康一行は6月2日早朝に堺を出発。帰国の挨拶に京都へ向かったと考えられます。

おそらく昼頃、家康一行が飯盛山の辺りまで北上したところで、前日から京都にいた家康お抱えの商人茶屋四郎次郎清延が、変の一報を家康に伝えるため東高野街道を南下、会うことができました。

 『茶屋由緒記』では家康はただごとではないという表情だったと書かれているそうです。

そして家康は、同行していた織田家臣の長谷川秀一の案内で伊賀越えを開始することを決め、三河を目指します。

さてここからのルートが、文献によって異なるので議論になっています。

ここでは『石川忠総留書』、『信長公記』、『新十左衛門末次京都所司代報告書』、『武徳編年集成』、『三河物語』、『半田町史』による伊賀越えの記録を順にご紹介していきます。


まず一般的によく知られている、『石川忠総留書』のルートです。書かれているのは陸路のみになります。

個人的に他のサイトで『石川忠総留書』を基に、記載された全ての地点をつないだルートを作成していましたので、それをGoogleマップに配置してみました。

伊賀越えルート 本能寺の変 徳川家康

※紫色は『半田町史』を基にした別ルート

 

『石川忠総留書』(1650年までに成立)は家康一行の同行者だった大久保忠隣の子、石川忠総による書物になります。

父子ともに長生きしており父の忠隣本人から聞いた情報が多いと思われ、記載内容は信憑性が高いとされています。

ただいつ書かれたのかは判明しておらず、大久保忠隣が亡くなったのは1628年ですから、死後20年ほど経ってから息子の石川忠総が書いた可能性も考えられ、記憶違いなどが含まれている可能性はあります。

 

通過した地名が細かく書かれているのが特徴で、堺を出発してからは「平野」、そして「阿部」、「山ノ根キ(山根街道?)」、「穂谷」、「尊念寺(尊延寺)」、「草内(の渡し)」、「宇治田原」と続きます。

堺から大阪の平野区を通り、「阿部」とあるので阿倍野区かと思います。(現在でも近鉄阿部野駅のように、「阿部野」の表記も使われています)

阿部野からは少し北へ進むと東へ向かう暗越奈良街道があり、生駒山地に沿う南北の東高野街道に出ることができます。

大坂城(秀吉の築城前の城)辺りから北東へ進んで飯盛山の麓へ着いたかもしれませんし、暗越奈良街道を東へ進んだのかはわかっていません。

ここでは通行しやすそうな暗越奈良街道を通って東高野街道に出たこととしておきます。

 

この時点で京都では信長に続き嫡男の信忠も討たれ、各地へ急報の早馬が走った頃でしょう。
家康も京都から駆けつけた茶屋四郎次郎清延によって本能寺の変を知らされ、ルートが東高野街道を外れて急遽山際の方へ移動することになります。

 

次の地名は「山ノ根キ」ですが、これをそのまま山根街道だとすると山から離れた一目につく平地の街道になってしまうため、実際は「家康ひそみの藪」辺りの星田という場所に移り、その後は山際に沿って北東へ進み、尊延寺や穂谷方面へ向かったのではないかと思います。

穂谷や草内の渡しまでのルートはWEB上で地元の方が検証されていて、細部のルートはいくつか候補があるようですが、長くなるのでここでは省略します。

ちなみに、星田の平井邸は家康が後年の大坂夏の陣の際に宿泊しており、 伊賀越えの際に道案内の援助があったと言われています。

 

『石川忠総留書』は地点だけでなく、移動中の出来事も書かれています。

6月3日の八つ時(14時頃)に織田方の宇治田原城(山口城)(城主 山口甚助秀康)へ着いたところから始まります。城内で弁当を出されたと書かれています。

つまり家康一行は6月2日昼頃に飯盛山付近で本能寺の変を聞いた後、すぐに宇治田原城へ移動を開始したわけではありませんでした。

6月2日は近くにある星田の「家康ひそみの藪」や穂谷などで一夜を明かし(信長が討たれた情報が事実かどうか、また帰国ルートなどを話し合っていたのでしょう)、6月3日の日の出から移動を開始、木津川の草内の渡しを越え、宇治田原城に着いたと想像することができます。

 

6月3日の夜は小川村まで進んで甲賀衆の多羅尾勘助の宿で泊まったとあり、6月4日は多羅尾勘助の案内で小川村から一気に伊賀北部を通過して鹿伏兎峠を越えます。

小川村からは道が分かれているので、ここでも柘植(つげ)までは3つのルート候補があるようです。甲賀寄りの北の道を回ると、高低差が少なく通行しやすいのだとか。細かいルート特定までは難しそうです。

 

この辺りになると甲賀衆だけでなく伊賀衆も手助けをしたようで、様々な家の由緒で家康を助け褒美をもらった話が多数残されています。
(どの家も自分たちだけが家康の命を助けたような書き方になっていて信憑性は微妙に感じますが、案内には加わったのでしょう。)

そして伊勢に出て四日市に着くと、水谷九左衛門光勝という人物が御馳走("ごちそう"ではなく手助けに奔走する、との意味)したようで、この人物は後に四日市代官となったそうです。

 

ここで『石川忠総留書』の疑問になるのが、四日市の海まで出たのに南下して那古より船に乗られた、とあるのです。
那古は長太(なご)という場所が該当するようですが、かなり遠回りしています。

多くの書物では四日市や那古ではなく、家康は白子("しろこ"と読むそうです)から乗船したと書かれていて、『石川忠総留書』だけがこの遠回りなルートになっているので議論になっています。

 

もう一つ疑問点があり、6月4日の移動距離が長すぎることです。

6月3日は30~40kmの移動距離でしたが、6月4日は小川村から長太まで75kmを移動し、そこから乗船、さらに知多半島を15km移動します。(知多半島に上陸せず船で大浜まで着いた可能性もあります)
休みなく歩き続ければこのような長距離移動は可能なのでしょうか。

信憑性は問題ないとされる松平家忠が記した『家忠日記』では6月4日条で、深溝城の家忠が大浜で家康を出迎えており、日付については事実かと思います。
または日付が変わった深夜だったかもしれません。

『石川忠総留書』では海路は書かれていないため、検証はここまでになります。ただ『石川忠総留書』のおかげで伊勢までのルートは概ね判明しました。

 

※余談ですが、伊賀越えに関する数少ない一次史料をご紹介します。

6月3日に安土城にいた信長の女房衆(濃姫なのかは不明)を日野城へ救出した蒲生賢秀へ、家康が6月4日にご尽力に満足していますと送った書状があります。(日野城甲賀の北東の位置)
伊賀を通過する際に、安土の女房衆が救出されたとの情報が伝わった生々しい情報になります。

また家康が帰国後の6月12日に、甲賀の和田氏へ伊賀越えの際のお礼を伝えた書状(家康は人質を出したことも褒めている)、また6月8日に筒井順慶が伊賀の喜多村氏へ、徳川殿の伊賀越えの際に人を出したことに感謝を伝えた書状があります。(これはどういう間柄なのか気になる書状ですが)

家忠日記』も家康の到着日がわかる貴重な一次史料になりますが、リアルタイムで記録された史料はこのあたりしかなかったと思います。
基本的に伊賀越えは『石川忠総留書』のように、江戸期に編纂された二次史料に頼ることしかできないのが現状です。

 


次に有名な『信長公記』に書かれた伊賀越えです。

信長公記』は慶長15年(1610年)成立で二次史料になりますが、著者の太田牛一は日記形式で書いており、一次史料並みの信憑性がある書物です。

ただ、太田牛一織田家の人物なので伊賀越えのような遠方の情報に関しては残念ながら微妙な記述となっています。

信長公記』の伊賀越え部分は、陸路は宇治田原を経由し(細かい地名は記載なし)、伊勢に出ると桑名で舟に乗って熱田(当時は海岸線に面していた)へ着いたと記してあるのみになります。

桑名ー熱田は東海道五十三次で知られる江戸時代の七里の渡しですが、戦国期からあったようで、なにかの史料で実際に使用されているのを確認したことがあります。

しかしこのルートは他の史料では記載がなく、また『家忠日記』の内容と一致しないことから、研究者の間ではあまり検証されていないようです。

 


『新十左衛門末次京都所司代報告書』(1650年成立)は宇治田原城付近の出来事のみですが、興味深い記録です。

宇治田原城主だった山口秀康の家臣 新主膳正末景の息子が、江戸時代に父親の話を聞いて書いたという書物になります。生の情報ですから、信憑性は最も高いと思います。

こちらのサイト様が読み下し文を掲載されています。
戦国浪漫

多少の時間差はありますが、概ね『石川忠総留書』と一致しています。

巳の刻(午前10時頃。夏の時刻のため午前9時頃か)に家康が宇治田原城に到着し、食事をして午の刻(午後12時頃)に出発したとのことです。

 

この『新十左衛門末次京都所司代報告書』が面白いのは、城に到着前の木津川を渡る場面が詳細に記録されていることです。

「サテ両人之者ハ渡シ場之川西ヘ乗越シ御跡ニサガリ申ス小者、中間、残ラズ川ヲ越サセ、此方へ乗リ返シ申ス間、穴山梅雪老渡シノ西表ニテ一揆ノ野伏共ニ取■■ギ■躰御座候、」

新主膳正末景が宇治田原城から家康一行を助けようと駆けつけると、すでに家康は渡りきっていて、小者や中間(ちゅうげん)がまだ西の対岸に残っている状況だったようです。

(川越えで一番最後になるのは本当に危険だと思います。襲撃されても誰にも助けてもらえないですからね。やはり身分の低い者が最後に残っていたようです。)

そこで舟を出して彼らの救出に向かった際、西側で別行動をとっていた穴山梅雪(信君)が一揆に討ち取られるような記録が書かれています。

一部文字が欠損しているようですが、この場所で討ち取られたことが確認できます。

地元の伝承によると、穴山梅雪の手下が道案内の者を斬って刀の鍔を奪ったことに在地の土民が怒り、梅雪一行が討たれたそうです。

穴山梅雪が討たれた内容を記録した当時の文献は他にはないので、大変貴重な記録ではないでしょうか。家康が宇治田原城で食事をした内容も『石川忠総留書』と一致しており、『石川忠総留書』の信憑性も上がりました。

『新十左衛門末次京都所司代報告書』はネット上で掲載された活字しか確認できないのですが、原本が公開されて研究者の間で検証していただきたいところです。

 


江戸中期の『武徳編年集成』(1741年成立)にも伊賀越えが書かれてあります。

家康は守口(飯盛山より西、淀川沿いの守口市)で変を聞き、6月2日は普賢寺谷で宿泊、6月3日に木津川を越え八幡村(調べましたがどの場所かわかりませんでした)で宿泊、4日は丸柱宮内の館に宿泊、5日は鹿伏兎で宿泊、そして6日に伊勢白子から舟に乗り三河大浜へ到着するとあります。

この『武徳編年集成』をもとに作成された有名な『徳川実紀(1844年成立)』も、伊賀越え部分は基本的に同じ内容となっています。

しかし、これでは『家忠日記』と一致しません。

家忠日記』は毎日多くの情報を記録している中で、6月4日に「(家康が)大浜へ御上がり候、町まで御迎えに越し候」と書いているので、間違いはないでしょう。6月6日の到着は信じ難いですね。

 

『武徳編年集成』は『武徳大成記(1686年成立)』の内容に不満だった、将軍徳川吉宗の命で編纂された書物だそうですが、あまり信用はしていません。

この文献には特に一次史料に一切書かれていない、1564年頃に家康が清州城を訪れて信長との清州同盟が結ばれる内容が書かれているので、やはり幕府公式の文献といっても後世の編纂物になると信憑性は低くなると思います。

(信長と家康の同盟は事実ですが、『信長公記』には記述がなく、『三河物語』や『松平記』では「和睦した」「誓紙を交わした」、としか記述されていません。
家康や松平家の家臣団が清州城を訪問するような一大イベントであれば、必ず記録されるはずですから。)

ということで6月6日到着説は除外したいと思います。

 


三河物語』では詳しいルートは書かれていませんが、海路は知多半島に上陸しているのが特徴です。

「伊賀を出られ白子より舟に乗られ、大野へ上陸したと聞き、皆が迎えに参り岡崎までお伴した。」

白子で舟に乗り、到着は知多半島の大野と書かれています。大野からは知多半島を横断し、短い海路を渡って大浜に着いたと推測されます。

伊勢から大野への海路ですが、本能寺の変松平家忠のいる深溝城へ届けられたのも、大野から飛脚が来たと書いてあるので、伊勢~大野も海上の交通ルートだったようです。

個人的には手漕ぎの船で知多半島を大回りすることを考えれば、半島へ上陸した方が確実で時間短縮できると思います。

この白子~大野のルートは可能性が高いのではないでしょうか。

他の書物で伊賀越えを端的に記した記述では、白子(または四日市)から大浜に着いたと書いてあることが多いのですが、短くまとめただけのように思っています。

家忠日記』も「伊勢地を退き候て、大浜へ御上がり候」とあるだけなので知多半島を回ったように思えますが、家康に会った当日ですし、詳しい経路はまだ聞いていなかったのでしょう。

 


次に郷土史の『半田町史』が興味深いです。こちらのはんだ郷土史研究会様のホームページが参考になりました。

『半田町史』でも家康は知多半島に上陸しています。

知多半島の西側にある大野東龍寺の記録では、「常滑に着するも城主擬色あり」と常滑城主の人物が光秀方の立場を取っている可能性があったようで、やむなく北の大野へ船で移動したことが書かれています。

また知多半島の東側にある常楽寺の『常楽寺文書』にも、「勢州より四日市常滑へ御船を寄せたまひ、東龍寺にお着き」と書かれてあるそうです。

双方のお寺で内容が一致することから、『三河物語』と合わせて知多半島経由が実際の海上ルートなのでは、という考えに至りました。

 

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<まとめ>

伊勢の乗船場所については『石川忠総留書』に惑わされているおかげで検証が進みませんが、ひとまず現時点では『石川忠総留書』の陸上ルートと、『三河物語』と『半田町史』を基にした知多半島経由のルートが信憑性が高いと考えています。

ネット上では多くの方が伊賀越えについて書かれていて、特に地元の方による細部の検証はとても面白く知識が深まります。

2015年には、6月3日に家康は小川村の妙福寺に泊まったことが書かれた史料が見つかったことで、宿泊したのは多羅尾氏の小川城ではないことも判明し、解明が進みました。

今後も楽しみながら検証を続けたいと思います。

 

追記)最後に、最近話題になっている堺から大和国を移動する大和越え説について。

この大和越え説も記録を確認するとあり得ない話ではなく、ルート的にも違和感がないので話題になるのも納得できます。

根拠となるのは、1660年成立の『石川正西見聞集』(石見浜田藩主 松平康映の命で、家臣の石川正西が書いた書物)では「堺より大和路へ御出、伊賀こえ被成候」とあります。

また有名な『当代記』でも、大和路へかかり、高田の城へ行ったとあります。

他には、『寛政重修諸家譜』の竹村道清の項目で、家康が大和国の竹内峠(位置は上の伊賀越えルート図に記載しています)を通る際に案内したと書かれてあります。当時竹村道清は織田家の人物だったようです。

村道清はその後、慶長18年(1613年)に石見銀山の2代奉行(初代は大久保長安)に任じられていて、これは事実のため大和越え説も無視できない記録となっています。

 

とはいえ、多数残っている伊賀越えの記録が全て作り話ということはないでしょうから、家康は影武者を用意して大和越えを行わせた、その噂が広まって書物に書かれた、と考えるのが妥当かと考えています。

影武者を守ることも重大な任務ですから、竹村道清のように出世した人物がいても不思議ではないですよね。

伊賀越えは様々な説があり、なにかと話題になるのは良いことではないでしょうか。