本能寺の変 明智憲三郎氏の説についての批判

2020.8.27更新

近年、本能寺の変明智憲三郎氏の説が認知されるようになってきました。

信長が家康を殺し、徳川領へ攻め込む計画だったという『本能寺の変431年目の真実』やその他の続編で書かれている説です。

 

 

私は以前からこの書籍の内容が当時の史料と合わない部分があると指摘してきました。

筆者のブログにも何度かコメントさせていただきましたが、筆者の主張が変わることはないようでした。

そこでこのページでは私の疑問点を整理し、また本能寺の変について自らの考えもあるのでまとめておくことにしました。

(この記事は非常に長くなっております。お時間のある時にでも読んでいただければ幸いです。)

<筆者の説をおさらい>

まず筆者の説を確認しておきます。

本能寺の変431年目の真実』では、信長は上方へ招いた家康を6月2日に本能寺へ呼び出し、その家康を光秀に討たせ、そのまま徳川領へ侵攻するという説が書かれています。

光秀がこのような行動を起こしたのは、信長の唐入り構想で明智一族が大陸へ送られることに不安を感じていたとしています。そこへ信長の家康討ち計画を知ったことで、光秀はそれを逆手に取って家康と組み、信長を討ったということです。

結果的に光秀の謀反は失敗に終わります。その理由は秀吉の中国大返しがあまりに早すぎたこと、そして細川藤孝や摂津衆が秀吉についてしまったことが原因としています。光秀は謀反の後、50日100日は誰も戻ってこないと考えていたのだそうです。

 

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まずは以前に指摘した、本書への6つの疑問点をまとめておきます。

 

1. 時系列から信長は家康に本能寺へ来いとは命じていない

史料によると、堺にいた家康一行の40名は6月2日の早朝に京へ向かって出発します。堺から京都までは街道計測で約57km、当時の人々の移動距離は1日40km程度だったため、堺~京都は「1日半の距離」になります。

信長公記』・『家忠日記』によると5月に家康一行が出発した際、三河の岡崎~近江の番場まで街道計測 約109km間を3日かけて移動しています。1日平均で35km程度の移動距離です。

それを1日60km移動するのは強行軍であり、仮に通しで歩いても到着は夜になるでしょう。

家康一行には信長側近の長谷川秀一ら織田家臣もいるので、信長から「6月2日に来い」と命じられて6月2日の夜に着くような移動計画は立てないわけです。

筆者はこの点に関して、時速5kmで12時間歩けば夕方には到着できると回答しました。ただ集団移動でそれは現実的に困難ですし、仮に到着しても信長を一日中待たせることになります。この指摘については回答されませんでした。

「431年目の真実」には6月2日昼頃の家康討ちを想定して書かれているので、おそらく堺から京都まで2~3時間程度で到着できると思って説を立てたと思われます。

 

2. 今井宗久は家康と6月3日の約束をしていた

6月2日説が合わないなら信長は6月3日に呼び出したのでは、と考えることもできます。

しかし、堺にいた今井宗久は5月29日の日記で家康を6月3日の茶会に誘ったことを書いています。

「徳川殿堺ヘ御下向ニ付、爲御見廻參上、御服等玉ハリ候、来月三日、於私宅御茶差上ベクノ由申置候也」(今井宗久茶湯日記書抜 5月29日条)

来月(6月)3日、私邸で茶を差し上げることを申し上げたと書かれています。

家康に6月3日の上洛命令が出ていたなら、このような約束が書かれることはないでしょう。

 

3. 家康は毛利討伐の出陣予定だった

家忠日記』の6月3日条(本能寺の変が伝わる直前)には、家康が西国へ出陣があると書かれています。

「三日、京都酒左衛門尉(酒井忠次)所より家康御下候者、西国へ御陣可有之由申来候、さし物諸国大なるはたやミ候て、しない成候間、其分申来候」(家忠日記

この記録には京都にいる酒井忠次から三河深溝の松平家忠へ、家康が帰国後に西国へ出陣することが伝えられ、また諸国(織田の各国部隊)は大きな旗指物は使っておらず "しない(小型の旗)" を使っている(ので徳川軍も合わせるように)と伝えられています。

標準的な使者の移動距離(緊急時を除く平常時は1日40~50kmの移動距離)から逆算すると、おそらく5月末に家康一行が京都から堺へ向かう頃に、三河深溝へ出された命令かと推測します 。

共に西国出陣する上方諸国の軍隊が使っている旗指し物の種類まで指示があったようで、徳川軍は毛利討伐の準備を進めていたことがわかります。

(※「しない」は小型で柔らかくしなりやすい旗を意味するのだそうです。出典:『松平家忠日記』盛本昌広 (著) 角川選書

 

4. 信長の上洛は少人数が多い

本能寺の変の際、信長は「小姓衆二、三十人」(信長公記)で上洛していたため、油断していたのではないかとよく議論になります。

しかし、史料には信長が少人数で上洛した記録は何度も書かれています。

元亀元年の際は「四、五騎にて上下三十人ほど」(言経卿記)で上洛、天正3年は「小姓衆五、六名」(信長公記)で上洛とあります(ホントかなと思うくらい少ない)。
他には「馬廻りのみ」、「少人数」で上洛したという記述もあります。

毎回の上洛ごとに逐一人数が記録されているわけではありませんが、兵を連れた出陣途中の上洛を除いて、信長が大勢で上洛した記録は私が知る限りではありませんでした。

このように信長は身軽に行動する特徴があるので、本能寺の変の際も少人数で上洛したことについてミステリーはないでしょう。

 

5. 信忠討ち計画が成立しない

光秀が本当に織田家を倒す計画を立てたのであれば、形式上とはいえ織田家当主であり信長の後継ぎとなる信忠を討つ計画も立てたはずです。

もし信忠が生き残れば織田家はこれまでと変わらず存続し、光秀に勝ち目はなく謀反を起こす意味がないからです。信長討ちと信忠討ちの重要度は同じはずです。

にもかかわらず『431年目の真実』には信忠のことは「家康にまかせる」との一文があるのみで、これでは計画を立てたとは言えません。

仮に、家康が6月2日の朝などに堺で信忠を討てたとして、どのように40名の家康一行は徒歩で脱出するのでしょう。堺の町に織田の守備兵は全くいないのでしょうか。

『石川忠総留書』によれば家康が伊賀越え開始地点の山城国の山口城に入ったのは6月3日の午後です。山口城や周辺の城には早馬により家康の謀反がすぐに伝わるはずで、これでは首尾よく信忠を討てたとしても家康は伊賀越えができません。

筆者が信忠討ち計画を説明できないのであれば、史実の光秀は信長と信忠を同時攻撃していないため(信忠に逃げる時間があった)、やはり光秀の計画性は低いと考えるのが妥当です。

 

6. 秀吉黒幕説は難しい

本能寺の変は黒幕説が話題になることが多く、中でも秀吉の黒幕説は有力視されています。本書でも秀吉は事前に光秀の謀反を知っていたと、黒幕のように書かれています。

しかし秀吉は本能寺の変の際、長浜城に妻のねねを残しており明智方に人質として捕られてしまうところでした。

幸いねねは地侍の広瀬兵庫助によって助けられていて、秀吉は広瀬兵庫助に感謝状を出しています。この戦火となる長浜に家族を残しているという事実から、秀吉黒幕説は考えにくいように思います。

(この秀吉の感謝状は以前から『甲津原文書』で写しが確認されていましたが、2015年に原本が発見されたことで事実と認定されました。)

※追記)この点については、筆者は秀吉は予め広瀬兵庫助に救助を頼んでおいたと説明しています。広瀬兵庫助は長浜城築城などで秀吉に協力的だった人物と言われています。

 

また、秀吉はいち早く本能寺の変の情報をキャッチしたとよく言われます。しかし京都から約160km離れている三河深溝城には6月3日酉刻(18時頃)に本能寺の変が伝わりました。

京都から200km離れた備中高松に6月3日夜半(秀吉は書状により「四日」とも書いている)に届いたのであれば、同じくらいの伝達速度になります。

秀吉だけが早く知ったということはなく、実際には徳川家の方が先に情報が伝わっていました。

 

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ここからは、本能寺の変について新たに気づいた項目をまとめています。

  • 中国大返しの移動速度
  • 備中高松の戦いは終わっていた
  • 柴田勝家は200kmを3日で移動
  • 光秀の判断ミス
  • 当初から光秀の味方は少なかった
  • まとめ

 

中国大返しの移動速度

筆者は秀吉の中国大返しを「想定をはるかに超える速さ」と何度も速さを強調し、それは光秀の謀反を知っていて事前に準備していたためと説明しています。

しかし実際に計測すると秀吉軍は標準的な軍隊の移動速度だったので、光秀が本当に用意周到な計画を立てていたのであれば十分に予測ができました。

ここでは秀吉の行軍速度を詳しく計測してみます。

追記)
この「速さ」という点に関して、明智憲三郎氏が私のブログに対して指摘していました。「速さ」ではなく秀吉の対応の「早さ」なので意味が違うとのことでした。
筆者は『431年目の真実』のp.215に「想定をはるかに超える速さ」と書いていたり「スピード」という言葉を使っていますが、対応の早さという意味だったようです。
ただ、下の項目で解説しますが越中で交戦中だった柴田勝家は変の一報を聞いて3日後には200km離れた北ノ庄城まで南下しています。筆者は秀吉を褒め称え過ぎに感じます。
 

軍隊の標準速度は1日約24km

一般的に歩兵を含む大部隊の移動距離は、1日平均24km程度と言われています。

その根拠として、『甫庵太閤記』には朝鮮出兵の際、秀吉は部隊の行軍を「一日六里(約24km)」を基準として宿場に合わせて距離を増減するように定めています。
総重量20kgなどになる歩兵の疲労を考慮すると、この程度のペースが基準になっていたようです。

(旧日本陸軍の「作戦要務令」にも1日24km行軍が定められていて、歩兵の移動速度は戦国時代と全く同じだったことになります。)

様々な史料を基に部隊の行軍速度を計測してみると、1日の移動距離はだいたい25~30km前後の範囲に収まっています(ただし騎馬隊のみの場合は1日50km前後)。

一部で行軍が速い例もあるのでご紹介しますと、慶長5年、関ヶ原の戦いの前に徳川家康(兵数30,000)が江戸から清須まで移動した例があります。

江戸から清須(東海道+鎌倉街道(尾張))までの距離をGoogleマップで計測すると約371kmでした。それを11日間で移動したので、1日平均は33.7kmの移動速度ということになります。

これはかなり速い記録ですが、家康は出陣が決まっていたので街道の宿泊設営、物資運搬など下準備を全て整えた状況での移動と思われます。

もう一つの例としては、天正18年の小田原征伐後に秀吉が京へ帰還するまでの行軍があります。
奥州仕置を終えた秀吉は8月12日に会津を出発、9月1日に京都へ到着します。中山道を経由したとして約650kmの距離を20日間で移動したので、1日平均は32.5kmです。

これらの記録は中国大返しとは状況が全く異なるので比較はできませんが、準備を整えた場合は1日30kmを超える速い行軍も可能だったことがわかります。

中国大返しは1日25km行軍

備中高松城から摂津富田(6月12日着)まで移動した、中国大返しの行軍速度を計算してみます。(6月13日は摂津富田~山崎の10kmしか進まないため除外します)

備中高松城~摂津富田までの距離は、西国街道の計測では約202kmでした。
仮に6月5日出発とすると8日間移動となり、1日平均は25.3kmの移動速度になります。6月4日出発の場合は1日平均22.4kmの遅い速度になります。

速いイメージのある中国大返しですが、1日平均25.3kmという標準的な速度で移動しているのです。
(私が紹介するまでもなく、ネット上では以前から中国大返しが速くないことは指摘されています)

 

備中高松までの山陽道計測

※街道計測はこのようにグーグルマップを用いて行いました。街道から外れる区間もあり、その場合は現在の道で計測しています。繰り返し計測を行いましたが、計測の度に多少の誤差はあります。

※実際の行軍は長い隊列になったと思われ、最後尾の兵は1日遅れの出発と1日遅れの到着になった可能性がありますが、煩雑になるのでここでは省いて考えています。

 

中国大返しの移動速度を推測できる史料はいくつか確認できます。

秀吉側近の杉若無心は細川家の松井康之宛の書状で、「6月6日に秀吉は姫路(備中高松から約95km先)に着いた」と書いています。騎馬移動であれば2日間で100km移動が可能なので、6月5日朝の高松城出発と推測できます。

ただ秀吉は中川清秀宛書状で「今日(6月5日)は成り行き次第で沼城(備中高松から約25km先)まで行く」と書いていて、その場合6月6日に姫路へ到着するには沼城から約70km先の姫路まで1日で移動することになります。

これは本当に苦労の末長距離移動をしたか、または杉若無心がまだ着いていないのに6日に姫路に着いたと誇張して伝えた可能性が考えられます。

『惟任退治記』には秀吉は6月6日に沼城へ入り、翌7日は大雨の中移動して姫路に着いたという有名な話が書かれています。この書物では日付が1日ずれていますが、こちらも各史料と似た移動行程となっています。

いずれにしても中国大返しの移動速度は歩兵を含む全軍の日程で判断するので、秀吉自身の騎馬移動は特に重要ではありません。
秀吉は6月8日は姫路で行軍を休止するので、歩兵はここで遅れて合流したのではないかと推測します。

 

参考として、他の秀吉の行軍例も掲載しておきます。

天正8年6月19日に長宗我部元親へ宛てた手紙(『紀伊風土記』に収録)の中に、宇喜多軍を助けるため秀吉が強行軍をしたような記述があります。

3月25日に長浜城を出陣して閏3月2日の三木到着まで推定約160~170kmを7日間移動していて、「人馬の疲れも省みず昼夜の境もなく馳せ上った」と秀吉は書いていますが計算すると1日約25kmペースなのです。

自分の行軍を誇張するのは秀吉の特徴であり、そもそも標準速度なので速くありません。

歩兵を限界まで速く移動させても個々の体力差で隊列はバラバラになりますし、目的地に着いても戦闘できる体力がないので無理なペース配分は意味がないのです。

 

結論としては歩兵を含む大部隊の行軍速度は、街道の下準備を整えた好条件の行軍や天候や地形などの悪条件がある行軍を除いてはだいたい同じ、ということです。

備中高松~山崎までは約200kmの距離なので、1日25km進むと8日間移動になります。
標準で1日24kmを移動する軍隊としては "もともと8日間の距離" であり、秀吉はその速度で移動しているなら光秀にとって想定できる行軍速度だったことになります。

 

備中高松の戦いは終わっていた

備中高松から撤退する手際の良さも秀吉黒幕説の理由になっていますが、史料を読むと撤退できる状況は整っていました。

秀吉は4月から備中七城、5月初旬から高松城の水攻めを開始します。

小早川隆景は4月に援軍として到着(4月23日付中川秀政宛秀吉書状)、5月に毛利輝元吉川元春が到着します。
しかし輝元は備中高松から20kmも後方の猿掛城に留まり、小早川隆景吉川元春も増水のため足守川の手前で布陣し、交戦することなく対峙が続きました。

毛利側の『萩藩閥閲録』によると、秀吉は安国寺恵瓊を呼び高松城清水宗治切腹を要求、恵瓊はその要求を輝元へ伝えますが拒否されたため、恵瓊は密かに高松城に入り清水宗治切腹を伝え、清水宗治も城兵の救済を条件に6月4日に切腹が決まったと書かれています。

甫庵太閤記』では6月3日に清水宗治切腹を申し出る書簡が紹介されています。また清水宗治は息子に「身持ちの事」という6月3日付の遺言書を残しています。
秀吉が本能寺の変を知る前に城主の切腹まで決まっていたので、残るは毛利との領土交渉を残すのみという状況でした。

このように秀吉が素早く撤退できたのは光秀の謀反を知っていたからではなく、備中高松での戦闘が終結していたからです。

 

交渉内容がわかる一次史料は少ないですが、輝元は満願寺宛で
「当陣之儀ハ先以惣和談相調候、羽柴引退候、此方之儀者恐々中途迄帰陣候、尚吉事重畳可申承候」(6月6日付満願寺文書)
と両軍が兵を引いたことを「吉事重畳」と喜んでいるので和睦を望んでいたようです。

また輝元は「将又此表之事、羽柴和平之儀申之間、令同心無事候、先以互引退候」(6月8日付寄組村上文書)
と秀吉が和平を申し出たと書いています。

また秀吉家臣の杉若無心の書状では、交渉は三か国譲渡に決まったと書かれています。

秀吉はどの書状でも毛利から五か国譲渡を伝えてきたと書いていますが、実際にはこの杉若無心の記述から三か国で譲歩したと考えられています。

変の一報を聞いた秀吉は、素早く撤退するため毛利に悟られずに手際よく交渉をまとめたのでしょう。

秀吉は数日で落城すると伝えている

この備中高松の戦況は、光秀も予想できたように思います。

秀吉は5月15日頃、信長に援軍を要請します。『信長公記』では信長が援軍要請を受けて「中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰せつけらるべき」と号令をかけることになります。

そして5月19日、秀吉は越中にいる柴田勝家与力の溝江長澄へ書状を送り、高松城は守りが堅いので水攻めにしたこと、「端城の土居を水打越」と水攻めが進んでいること、また落城は「十日五日の内」と伝えています(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)。

このような戦況報告が越中にまで届いているということは、信長・光秀のいる上方にも5月21日頃には届いていたと考えていいでしょう。この時点で光秀は坂本城にいます(亀山城へ戻るのは26日頃)。

援軍の総大将とも言える光秀に、水攻めをしている備中高松の戦況が伝わらないというのは考えにくいです。またもし光秀が本当に謀反を計画していたのであれば、備中の様子が気になって自ら情報を集めるはずです。

秀吉の報告をもとに判断すれば5月末には落城するので、謀反決行の頃は戦況が変わって秀吉はすぐに動くかもしれない、と予想できたことになります。

秀吉は宇喜多を押さえとして撤退可能

高松城から東10kmには宇喜多の本拠地である岡山城(石山城)が位置しています。

もし秀吉が撤退しても宇喜多軍1万の兵は当然その地に留まるので、秀吉は宇喜多を押さえとして残すことができました。

このような毛利側が追撃しにくい状況は、当時の光秀なら把握できたのではないでしょうか。

 

柴田勝家は200kmを3日で移動

2018年に「6月10日付 溝口半左衛門宛柴田勝家書状」が発見され、柴田勝家の動きが判明したことで話題になりました。

それ以前に発見されていた勝家書状と合わせて検討することで、本能寺の変を知った勝家がどのように行動していたのかが明らかになってきました。

勝家もすぐに撤退していた

世間の評価として、柴田勝家本能寺の変では出遅れたと言われます。ただ、史料を見ると素早く撤退していたことが確認できます。

新たに発見された勝家書状には、6月6日に越中宮崎城付近で本能寺の変の報せを聞いた勝家は、6月9日に北ノ庄城(宮崎城から約207km先)へ戻り、光秀の居場所を探ったり大坂の丹羽長秀と光秀討伐を考えていたことが書かれています。

以前から確認されていた柴田勝家書状でも勝家の移動行程は確認されていたので、より信憑性が増した印象です。

(この時点で勝家は光秀の動きを把握できていなかったと藤田達生氏は指摘していますが、越中で変を知った3日後に京都の動きを把握するなど飛脚の移動速度を考えれば到底不可能でしょう。)

6月10日付中川清秀宛秀吉書状にも勝家の動きが書かれています。

「柴修(柴田勝家越中表相随付候て、急而可馳上旨、五郎左衛門(丹羽長秀)書状披見、指越候」と勝家から大坂の丹羽長秀へ書状が届いたことを秀吉が書いています(勝家が変の報せを聞いて即大坂へ飛脚を送っていたことになる)。

勝家は6月10日頃に大坂へ着いた飛脚が越前に戻れば、その頃光秀が下鳥羽付近にいる動きを把握できていたことになります。飛脚が越前に戻るのは山崎の戦いが起きた6月13日頃でしょうか。

そしてすでに秀吉と光秀の決着はついていましたが、勝家は6月18日に長浜付近へ進軍しました(6月18日付 近江坂田郡加田荘 禁制)。
(『中村不能斎採集文書』には近江へ入った柴田軍の先鋒は柴田勝豊だったと書かれているそうです)

6月18日に柴田軍が長浜へ着いたと考えた場合、逆算すると6月15日頃に北ノ庄城を出陣していることになります。

近江北部には明智勢として長浜城阿閉貞征佐和山城の山崎片家がいましたが、柴田軍の敵ではないと思われます。

安土城明智秀満に対しては蒲生氏郷が近江へ進軍した織田信雄家臣の小川長保より加勢を受けて日野城を出陣しており(寛永諸家系図伝)、そこへ勝家が南下してくるなら光秀が近江を守るのは難しくなります。

蒲生氏郷は軍記物では日野城に籠城したとされていますが、『寛永諸家系図伝』では城から出ていますし、氏郷は6月9日に八日市の常願寺、10日に安土山の西にある長命寺へ禁制を出しています(北村又三郎氏文書)。安土付近の寺社が蒲生軍兵士の乱暴・狼藉を止めてもらうよう依頼しているので、蒲生軍の進軍を予測していたことになります。

勝家も秀吉と同じ速度

勝家は6月6日に越中宮崎城(本能寺から中山道+北陸道を通る街道計測で約379km先)で変の一報を受け、6月9日に北ノ庄城まで引き返しました。

越中宮崎城から北ノ庄城までは約207kmの距離で、それを約4日間で引き返しています。

4日間だと1日50km移動(3日間と考えれば1日70km)となるので、歩兵を残した騎馬部隊のみの移動と推測できます。

 

北陸街道の計測
※北陸街道の一部の計測区間になります。このように旧北陸街道は何度も折れ曲がる区間が多く、現在の道より移動距離は長くなります。

 

そしておそらく全軍が越中から戻るのを待って勝家は北ノ庄城を出陣、6月18日に近江長浜へ進軍することになります。

秀吉は京都から西国街道計測で228km先の備中高松で本能寺の変を知りました。勝家は京都から379km先の越中宮崎で知ったため、勝家は秀吉より約150kmも遠方にいたことになります。

この約150kmの差というのは、越中へ変の一報を伝えるのが継飛脚(リレー形式)としても1日~2日かかる距離で、それを聞いて撤退する柴田軍が1日25km行軍として約6日かかる距離になります。

従って勝家は秀吉より7~8日ほど遅れて京都に着いたとしても、秀吉と同じ速度で移動している計算になります。しかも近江へ入るには敦賀付近の険しい峠越えがあるので難所の少ない秀吉より少し不利でした。

山崎の戦いは6月13日。勝家は6月18日に長浜付近へ進軍したので、仮に近江に明智勢がいなかった場合京都には6月21日頃に到着できた計算となり、8日遅れになります。

この計算から柴田軍も秀吉と同じく最短で撤退を開始、そして同じような移動速度だったことが推測できます。

秀吉の動きが圧倒的に早いと感じるのは、勝家より150km近い場所にいたからです。

勝家や家康も1日25km行軍

柴田軍の行軍速度も計算してみます。

越中宮崎を6月7日に出発したとして長浜へ6月18日に到着した場合、越中宮崎~長浜までの街道計測は約295km、それを12日間で移動したので1日平均24.6kmの移動速度となります。

同じ頃、三河では徳川家康が京都へ向かうため6月14日に岡崎を出陣、その日に鳴海へ到着しました(家忠日記)。移動距離は約25kmです。6月17日には酒井忠次隊が鳴海から津嶋まで約28kmを移動しました。

宿場に合わせた距離の増減はあったようですが、歩兵を含む全軍の行軍速度はやはり1日六里の24km前後が基準となっていたことがわかります。

 

光秀の判断ミス

ここでは光秀が本当に謀反計画を立てていたのであれば、本来はこうすべきだったという光秀の判断ミスを検討してみます。

雑賀衆を利用しなかった

光秀は確実に協力者となる、紀伊の反信長派に謀反を伝えていませんでした。

むしろ雑賀衆土橋重治の方から6月12日頃になって光秀へ、「入魂したいので和泉・河内へ出陣する」と伝えてきたほどです(森家文書)。
また本願寺顕如も光秀に協力するため、6月11日に下間少進を紀伊から派遣していました(宇野主水日記)。

謀反計画を立てたのであれば、光秀は決行日に合わせて密使を紀伊へ送るべきでした。露呈を恐れたとしても決行日に使者を出せば、仮にどこかで漏れても信長を討つ計画に影響はありません。

紀伊の反信長勢力がすぐに北上していれば堺にいた信孝を南から攻撃することができましたし、中国大返しで引き返した秀吉も対応せざるを得なくなるので展開はもう少し違っていたはずです。

筆者の説とは関係なく、史実の光秀の行動は謎が多いです。

事前に毛利へ伝えるべきだった

光秀は毛利に対しても謀反を伝えていませんでした。

輝元がどこまで行動を起こすかは別として、秀吉を備中で足止めさせるにはこの方法しかないわけです。

しかし毛利家の史料を見ると事前に光秀からの連絡はなかったようです。雑賀や毛利にも事前工作がない以上、突発的な行動と考えるのが自然かと思います。

(あるいは作り話が多いとされる『川角太閤記』にある光秀の密使が真実で、決起前後に密使を出していた可能性はあります。筆者もこの書物を信用していないためここでは検討しませんが、さすがに史実の光秀も決起頃には毛利へ密使を出したのではないでしょうか。)

50日100日戻って来ない説の根拠

筆者は、光秀は50日100日は秀吉や勝家が戻ってこないと考えていたと主張していますが、その根拠は6月9日付で細川藤孝へ宛てた光秀書状になります。

ネット検索で調べることができる有名な書状ですが、その一文です。

「五十日・百日のうちには近国の儀相堅むべく候間、 其れ以後は十五郎与一郎殿など引き渡し申し候て、何事も存ずまじく候。」

そのままの訳ですが、
「50日、100日のうちには近国を固めるので、それ以降は(光秀の息子)光慶と忠興殿に(政権を)引き渡し、何事も関わりません(私は隠居します)。」

この部分を、

「50日100日のうちに畿内を固め、それ以降(秀吉と勝家が戻ってくる頃に)忠興殿へ政権を譲ります」

と読むのはおかしいでしょう。この解釈では細川家が秀吉らと戦うことになり細川家にメリットのない提案になってしまいます。

ここは、「50日100日のうちには(秀吉ら反対勢力を討って)近国の情勢を安定させるので、それ以降は政権を譲ります」

と解釈するのが自然であり正しいと考えます。

年齢の若い息子らに統治させるなら情勢を安定させておくことは当然ですし、織田一門や織田派勢力は各地に点在しているので、この書状にある数十日かかるとの光秀の見込みは妥当ではないでしょうか。

この解釈であれば、秀吉は2~3ヶ月は戻って来ないと考えていたという説は難しくなります。

先ほど説明したように、史実の光秀は備中高松の戦況を把握していて秀吉が戻ってくる可能性も想定していたと思います。

 

当初から光秀の味方は少なかった

筆者は摂津衆や細川藤孝が味方につかなかったことも、秀吉の中国大返しが原因と書いています。
しかし、史料を見ると多くの武将が当初から反光秀であり中国大返しは無関係でした。

高山右近

フロイス日本史』によると、高山右近の居城である高槻城内では当初から一致団結して反光秀を決めていました。

光秀は高槻城へ使者を送りますが城を奪わないことを伝えるだけで、人質を要求しませんでした。城にいた高山右近の妻や家臣は、光秀の使者に味方になるような嘘を伝えて帰しています。

高山右近は光秀の与力(2年前に佐久間信盛が追放されたことで光秀の組下となった)であって光秀の家臣ではないので、謀反人に協力する理由はありません。

しかも右近は天正6年の荒木村重謀反の際にも村重の組下でしたが、中川清秀とともに信長に帰参しています。この例がありながら史実の光秀は自分の味方につくと決めつけているのが不思議です。

フロイスは兵士のいない摂津の諸城を押さえなかったことが、光秀の滅亡の発端であると書いています。

中川清秀

備中の秀吉が中川清秀へ、信長は無事脱出したと嘘を伝えた6月5日の書状(梅林寺文書)は有名ですが、「御返報」とあるので中川清秀から届いた書簡に返信を書いています。
中川清秀は備中へ行軍中だったので秀吉より先に変を知ることになります)

光秀の謀反を知った中川清秀はいち早く秀吉に連絡していることから、当初から秀吉方でした。

池田恒興

兵庫城主(?)の池田恒興の動向は一次史料がないのでわかりませんが、『武功夜話』によると中国大返しで戻ってきた秀吉と尼崎城で対面したそうです。

それ以上の動向は不明ですが、池田恒興の母養徳院は信長の乳母です。織田家と関わりが深い武将なので当初から織田方だったと考えます。

細川藤孝

後宮津にいる細川藤孝は多数の文献から判断すると、変の一報を受けてすぐに反光秀方となりました。そのため中国大返しの動きを見て秀吉についたわけではありません。

細川家であれば親しい間柄であり味方につけば周囲への影響も大きいので、光秀には誤算となりました。ただ石高の少ない丹後宮津ですから兵を出しても2,000程度の戦力と思われます。

筒井順慶

『多聞院日記』によると本能寺の変の時点で筒井順慶の兵数は6,000~7,000だったそうなので(6月15日条「順慶…昨今立人数六七千可在之ト云」)、秀吉の接近を知って光秀から離反したのは光秀にとってダメージは大きかったと思います。

ただ筒井順慶は秀吉にも兵を送らなかったので(後に秀吉に曲事とされた)、立場は微妙と言えます。秀吉も筒井順慶の兵力を生かすことができず、結果としてどちらの戦力にもなりませんでした。

丹羽長秀

先ほど紹介した6月10日付 中川清秀宛秀吉書状には、大坂の丹羽長秀柴田勝家から急ぎ向かうと伝えられたことが書かれていました。

丹羽長秀は言うまでもなく織田家重臣であり光秀につくはずもなく、さらに勝家から連絡があったことで摂津衆の連携は強化されたと想像できます。

 

このように摂津衆は当初から反光秀だったので、筆者の言う中国大返しを見て秀吉についたのではないため謀反失敗の理由にはなりません。史実の光秀は勝手に味方になるだろうと考え、摂津衆の城から人質を捕らなかったことが原因です。

結果的に山崎の戦い明智軍は摂津衆の攻撃を受けて総崩れになりました。

 

まとめ

筆者としては光秀は勝算があって決起したという説であるため、予想外に速い秀吉の中国大返しならやむを得ない、不可抗力で失敗したのだと言いたいように感じます。

しかし山崎~備中高松は軍隊としては8日間の距離であり、秀吉はその行程で戻りました。本当に綿密な計画を立てたのであれば、最短で戻るケースくらい想定しているはずです。

北陸の柴田軍も最短の行程で南下しており、6月18日頃には近江を攻撃可能でした。徳川軍も行程から6月21日頃には近江へ進軍できていました。

また四国討伐前の織田信孝(兵14,000)は動揺による兵の逃亡がなければすぐに光秀を攻撃するところだったと宣教師は書いています。

謀反直後から一斉に仇討ちに向かう(後継者レースが始まる)ことは容易に想像できることで、毛利や雑賀衆へ事前工作もなく光秀が勝算のある計画を立てることは困難です。

この謀反によって坂本城で自害した明智一族の人々、織田家臣として忠実に従っていた織田信澄は無駄死にであり不憫です。

 

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ここからは本書の説への反論に加えて、本能寺の変について他にも注目したい私の意見を書かせていただきます。

山崎の戦いで光秀は兵法を無視した

山崎の戦いで光秀は平地決戦を挑み、勝龍寺城近くにある恵解山古墳(または境野1号墳)に本陣を構えました。

筆者は狭い場所の出口を叩く作戦だったとしていますが、『孫子』の兵法では狭い「隘路」と「高地」は先に占拠して敵を迎え撃てとあり、もし敵が隘路を固めた場合は戦ってはいけないとしています。
呉子』でも小勢で戦う場合は平地を避けて隘路で迎え撃てと説いています。

しかし光秀は6月10日から下鳥羽や山崎にいながら西方面から来る秀吉軍を山崎村と天王山で迎え撃つ作戦を選択せず、山崎を捨てて東側の平地に布陣してしまいます。

そのため6月12日、秀吉軍の高山右近中川清秀に山崎村を占拠されました。山崎村は東西に門がある街道集落で、フロイスは「大きく堅固な村落」と表現しています。また東門の東側は淀川まで湿地帯を含めて広い土地があり、川沿いを池田恒興が進軍しました。

6月13日、明智軍の先手が山崎村に進軍して東門を叩き、高山右近がそれに応じて門を開けたことで戦闘は開始されます(フロイス日本史)。敵地へ侵攻していたはずの秀吉軍ですが、隘路で迎え撃つという理想的な形で戦うことができました。

高山右近は劣勢になっても集落に引いて城門のように戦うことができるので有利でした。また中川清秀は山手沿いから進軍して攻撃しており、丘を背に戦う部隊は兵法では有利となります。

結果的に明智軍の先鋒は池田恒興中川清秀に左右から挟撃されて全軍総崩れとなります。光秀自身は勝龍寺城に近い場所から動かず、一体何を考えていたのでしょうか。

先に戦場に着きながら平地に布陣し、兵法でしてはいけないとされる地形的に圧倒的不利な位置へ進んで戦闘を始めており、兵法など考えていない気がします。

秀吉が引き返すまでの行動も不可解ですし、この山崎の戦いでも光秀の行動は謎が多いです。

 

徳川軍が安土城を放火?

筆者は『多聞院日記』の記述をもとに、徳川の別働隊が6月12日に安土へ明智秀満の援軍として入り、秀満が城を出たあと6月15日に城を放火したとしています。
この別働隊が三河から安土へ向かうには街道沿いにある織田の城をいくつも通るため、織田方を装って通行する必要があります。

安土周辺では日野城蒲生氏郷織田信雄家臣 小川長保の加勢を受けて6月8日に出陣(寛永諸家系図伝)、先程ご紹介してように氏郷は6月9日に八日市の常願寺、10日に安土山の西にある長命寺へ禁制を出しています(北村又三郎氏文書)。

織田軍の進軍を予測して安土周辺の寺社が保護を求めていることから状況は緊迫していたことがわかります。この状況で徳川軍が現れて安土城へ入城したと言うなら、家康の寝返りが発覚してもおかしくないでしょう。

6月14日、家康は京都へ向かうため三河を出陣、尾張へ入り伊勢の織田家と連絡を行います(家忠日記)。
これを筆者は家康は織田方を装って光秀救援に向かっていると説明していますが、12日に別働隊が安土へ入ったならすでにその情報は広まり徳川は明智方となっているはずです。説明がよくわかりません。

 

炎上日は6月15日?

通説では安土城炎上は6月15日とされていますが、この炎上日について考えてみます。

吉田兼見の『兼見卿記』では6月15日条の先頭で「安土放火云々」と書いてありますが、この日の日記には続きがあり、息子の兼治が京都から約25km先の草津へ行き、夕方(申の下刻)に帰って来ています。

往復50kmは徒歩で10時間、馬の常歩(なみあし)で8時間程度かかるので、夕方の帰宅であれば午前中に出発したと考えられます。安土城炎上を書いているのは兼治が出発する前ですから、時間の経過から炎上は午前中(または朝?)に入った情報と考えることができます。

となれば京都~安土は約50kmの距離があるため、前日14日の出来事が翌日の午前中に京都に届いたのではないでしょうか。

甫庵太閤記』によると6月14日の未明に炎上しているので、翌15日朝に京へ届いたなら伝わるのが少し遅い気がします。しかし明智秀満は14日未明に安土城を出て街道を南下、(おそらく昼頃に)大津で秀吉軍の堀秀政と交戦します。

6月14日はこのような状況ですから安土から京へ向かう人々の往来もままならず、情報が伝わるのが遅くなったと推測することはできます。
(『甫庵太閤記』の記述を信用するのであれば、炎上は14日でよいわけですが。)

『多聞院日記』を読んでも何度も行われた信長の上洛(午後2時頃の上洛が多い)は40km先の奈良に翌日になってから伝わっています。急報ではない自然に広がる情報は意外と遅いので、安土城炎上は6月14日ではないかと考えています。

安土放火犯の史料

2015年に出版された『明智一族 三宅家の史料』には明智秀満の子孫による覚書(江戸中期成立)が残されています。

この覚書によると、山崎の戦いで光秀が敗れた報せが届くと安土の兵は逃亡して700ほどになり、秀満は安土城に火を懸けて坂本城へ移ったと書かれてあります。

他には『氏郷記』も秀満が火を懸けたとしています。(『氏郷記』は寛永11年(1634年)成立と言われ、まだ蒲生家の言い伝えが残っていると思われる時代の伝記になります)

どちらも江戸時代の史料ですが、明智秀満蒲生氏郷という現場にいた人物の子孫や家臣が書いていることから信憑性があると考えます。もとより城を退去する際の自焼に違和感はありません。

宣教師による織田信雄説も可能性はゼロではありませんが、奪還した城を燃やす理由がわからないのでこちらは納得しにくいですね。

またこの覚書には面白い記述があります。

秀満が本能寺を急襲した際、「信忠様が謀反により光秀が御味方に参った」と門番に嘘を伝えて門を開けさせたと書かれています。
三河物語』には謀反が起きた時、信長は「信忠が別心か」と発言したとありますが、このことを書いたのかもしれません。

 

 …すっかり本題から逸れてしまいましたが、新しい史料が出てくると別の視点から考えることができるので本当に面白いです。

明智一族 三宅家の史料』には光秀書状や熊本三宅家の史料・系図が収められていて非常に価値の高い史料だと思います。(購入するには25,000円と高価ですが、いくつかの大学図書館に所蔵されているので興味のある方はご覧ください)

覚書の内容は秀満寄りの記述も多少感じましたが軍記物のような創作感はなく、本能寺の変研究史料として活用できるように思います。

以上、新たに気づいた筆者の説への疑問はここまでとしておきます。

 

総括

明智憲三郎氏の説への疑問点と、本能寺の変についての持論を交えて長々と書いてみました。

謀反の動機は議論しても結論は出ませんが、個人的にはフロイスが書いた足蹴と、二次史料ですが『武家事紀』にある斎藤利三引き抜きの件で信長が光秀を殴る話などから、私は怨恨説を支持しています。お決まりの答えですが千載一遇のチャンスで信長を討った、ということになります。

信長を討った後、光秀は宣教師に向かって「このような成果を収めたことを歓喜せよ」(1582年度日本年報追信)と発言しています。信長を討てば皆が喜んでくれると思っていたのでしょうか…

 

筆者は信長の唐入り構想に注目し、それが謀反の動機につながったとしています。信長の唐入りについてはフロイスが実際に書いており、個人的には史料に基づいた仮説には興味がありますしこの着眼点は面白いと感じます。

ただ信長が家康を討つ計画やそれを利用した光秀の謀反計画は、それに当てはまる史料だけを集めて説を構成しており不公平に感じます。私は筆者が伏せている史料をこれからもAmazonレビューなどで紹介していくつもりです。

特に柴田勝家関連の記録に一切触れていないことは、これから本能寺の変を真摯に勉強しようとする人たちにとってよろしくないと思います。

研究者であれば関連史料は公平に紹介すべきで、自分の考えに合わない史料があっても、自説が正しいのであれば堂々と紹介して反論すればよいわけです。

今後も史料が発見されることで本能寺の変の解明は進んでいくと思います。次の新たな発見に期待したいと思います。

 

P.S.)光秀の年齢捜査についてはこちらでまとめています。