本能寺の変 明智憲三郎氏の説についての批判
2023.7.10更新
近年、本能寺の変は明智憲三郎氏の「本能寺の変431年目の真実」が認知されるようになってきました。
大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公は明智光秀ですから、時代考証ではありませんが筆者も話題になっています。
私は以前からこの書籍の内容が当時の史料と合わない部分があると指摘してきました。
筆者のブログにも何度かコメントさせていただきましたが、筆者の主張が変わることはなく、ブログで私のことを残念な人呼ばわりされてしまいました。
そこで私はこのサイトを立ち上げて筆者への反論を整理し、また戦国関連の書籍を見てもあまり行われていない(※2019年時点) 、軍隊や使者の移動速度・距離という視点から本能寺の変を検証してみたいと思います。
(この記事は非常に長くなっております。お時間のある時にゆっくり読んでいただければ幸いです。)
<筆者の説をおさらい>
まず筆者の説を確認しておきます。
「本能寺の変431年目の真実」によると、信長は堺で遊覧中の家康を6月2日に本能寺へ呼び寄せ、その家康を光秀に討たせ、そのまま織田軍が徳川領へ侵攻する計画を立てたそうです。
しかし、家康討ち計画を信長から聞かされた光秀は、逆手に取って家康と手を組みます。
光秀は信長を討ち、家康は共に堺へ向かう嫡男 信忠を討ち、織田家を崩壊させる予定でした。(家康は光秀に命を助けられたため指示に従うのだそうです)
家康は予め伊賀越えを脱出ルートとして計画し、信忠を討った後は治安が悪化する前にいち早く三河へ戻ったということです。準備をしていたので危険はなかったとのこと。
光秀が謀反を起こした動機は、信長の唐入り構想で明智一族が大陸へ送られることに不安を感じていたためとしています。(この謀反の動機についてはこのような説があってもよいと思います)
信長討ちは成功しましたが、結果的に史実の通り、光秀の謀反は失敗に終わります。
その理由は秀吉の中国大返しがあまりに早すぎたこと、そして細川藤孝や摂津衆が秀吉についてしまったことが原因としています。
先に結論を言いますが、下の3つ目の疑問で書いたように、家康一行は本能寺の変を聞いた後、その日は近くに留まり脱出行動を起こしていないことが記録から確認できたため、筆者の説はこの点だけで成立しなくなります。
本書への疑問
まずは以前に指摘した、本書への8つの疑問点をまとめておきます。
1. 6月2日に本能寺へ到着できない
史実では6月2日の早朝、堺での遊覧を終えた家康一行の40名は、京都へ向かうため出発します。
(信長は武田討伐の帰路で家康から接待を受けたので、そのお礼として今回家康を上方へ呼び、京都や堺で遊覧させていました。)
堺~飯盛山~京都までの距離は、最短の街道計測で約65kmです。(『石川忠総留書』に記載の移動地点を通れば約70km)。
当時の人々の移動距離は1日40km前後だったため、堺~京都は「1日半の距離」になります。
普通に考えても70km先は当日に着けないと言える距離ですし、本当に6月2日に本能寺へ来るよう命令が出ていたなら、前日には出発しないと間に合わないことになります。
家康一行には長谷川秀一ら織田家臣もいるので、信長の命令に背くことはできません。このような命令は出ていないでしょう。
この点を筆者に指摘したところ、時速5kmで休憩なく歩けば夕方には到着できると回答されました。
ただ集団移動でそれは現実的ではないですし(70km先だと到着は夜になる)、信長を一日中待たせることになります。
この信長を一日中待たせることについても質問しましたが、回答されませんでした。
「431年目の真実」を確認すると、6月2日の昼頃に、京都で家康を討って筒井順慶らが徳川領へ侵攻する計画が書かれているので、家康は堺から2~3時間で京都に着くという前提で説が立てられていることがわかります。
※史実で家康一行は5月28日に京都から堺へ向かった際は大坂城(旧石山本願寺跡)で1泊しています。京都から大坂城までは約45kmの距離ですが、行きは舟を用意されて川を下った可能性もありそうです。(大坂へは下流方向、かつ淀川舟運は古来からの交通手段です)
一例として、家康一行は5月10日頃に浜松を出て京都へ向かいますが、その道中の移動距離は近江に入るまで1日平均約35kmでした。集団が時速4km程度で休憩しながら1日移動すれば、そのくらいの移動距離になるのでしょう。急ぎの場合は1日50kmくらいの移動距離でしょうか。
2. 今井宗久は家康と6月3日の約束をしていた
6月2日説が合わないなら信長は6月3日に呼び出したのでは、と考えることもできます。
しかし堺にいた今井宗久は5月29日の日記で、家康を6月3日の茶会に誘ったことを書いています。
「徳川殿堺ヘ御下向ニ付、爲御見廻參上、御服等玉ハリ候、来月三日、於私宅御茶差上ベクノ由申置候也」(今井宗久茶湯日記書抜 5月29日条)
今井宗久は堺へ到着した家康を出迎えに行って服を賜り、「来月(6月)3日、私邸で茶を差し上げることを申し上げた」と書いています。
もし家康に6月3日の上洛命令が出ていたなら、このような約束が書かれることはないでしょう。
追記)
『宇野主水日記』には信長が急遽上洛したことを聞いた家康が急いで出発したと書かれています。(その後の追記でこれは計略だったとも書かれていますが。)
追記)
この『今井宗久茶湯日記』は現在の研究では偽書と認定されています。
私自身も以前に津田宗及の茶会記録と照らし合わせたことがあり、『今井宗久茶湯日記』は茶器の種類が津田宗及の記録と一致しないこと、また記述がいかにも編纂されたつぎはぎのような書き方であるとの印象を持ちました。
しかし今井宗久が家康と会った際の取り留めのない一文を、わざわざ捏造したとは思えないため考察の資料として扱っています。
また6月2日夕方条には本能寺の変を聞いたことが書かれていて、堺にいた今井宗久なら夕方くらいに情報が届くと思われるので、このような出来事の記録は問題がないように思います。
家康が京へ向かったのは信長の上洛という一大イベントが急に伝わったため、家康は用意されていた予定を終えると急ぎ挨拶に向かったと考えます。
もちろん今井宗久との個人間の約束は反故にするしかないですね。
3. 事件後に家康は動いておらず伊賀越え計画はなかった
家康は素早く伊賀越えを行なったイメージがありますが、実は6月2日はほとんど動いていませんでした。
もし伊賀越えによる脱出を予定していたのであれば、6月2日(おそらく昼頃)に飯盛山付近で変の一報を聞いた後、家康はすぐに安全な織田方の宇治田原城(山口城)へ向かうはずです。
(【茶屋由緒記】では京都にいた家康お抱えの商人 茶屋四郎次郎清延が、家康に変の一報を知らせるため急ぎ堺へ向かい、東高野街道を南下中に飯盛山付近で会っている。)
<『石川忠総留書』に基づく家康の脱出ルート>
※『石川忠総留書』にある「平野」、「阿部(現在の阿倍野と比定。近鉄の大阪阿部野橋駅など阿部野の表記も使われている)」を通過して飯盛山へ至るルート。
※6月2日の移動距離は穂谷で宿泊として約50km、6月3日の移動距離は約35km。
宇治田原城は飯盛山からまだ30kmの距離がありますが、治安の悪化から野武士などに襲われる危険があるのでその日のうちに宇治田原城へ向かったでしょう。
先に城へ使いを出せば、城主山口秀康が救援に向かったはずです。
しかし『新重左衛門末次 書付』『石川忠総留書』などの史料によると、6月3日の朝に家康からの先使が宇治田原城へ来て、家康は草内の渡しを越え、6月3日の昼頃に宇治田原城へ入ったことが確認できます。
家康は変の一報を聞いた6月2日の昼以降、飯盛山から近い"家康ひそみの藪"、または『石川忠総留書』に書かれた穂谷付近にいたと思われ、そこで一夜を明かしています。
※"家康ひそみの藪"は飯盛山の麓からわずか北東5km程の位置、また穂谷は信長に滅ぼされた三好方 津田氏の居城 国見山城(1575年に廃城)の東側にある谷で、いかにも牢人衆(主君を失った武士)が集まりそうな危険な地域です。
このように光秀が謀反を起こしてから24時間が経過しても、家康はまだ危険な飯盛山付近や穂谷の辺りにいるのです。
6月2日は日没(19時頃)まで時間があったにもかかわらず家康は脱出行動を起こしていないことから、脱出計画などなかったと確定してよいと思います。
追記)
筆者の説とは関係なく、史実の家康は何をしていたのでしょうか。
まずは信長が討たれたことが事実かどうかの情報収集として物見を出したり、事実であれば帰国するルートを家臣らと相談していたと思われます。
江戸期成立の『譜牒余録』には家康が京に上って信長の弔い合戦をすると言うと、酒井忠次ら家臣は兵が少ないと諫め、帰国してからの合戦を進言したと書かれています。
追記)
堺ー平野ー阿部野のルートですが、明治期の古地図で確認することができます。
赤線が大きな街道になり、平野から東へ進めば東高野街道へ出る最短ルートになるのですが、遠回りをしています。
(もちろん『石川忠総留書』の記録が間違っている可能性もありますが、大阪での移動を記した文献は他にはありません)
※リンク先の古地図は広島を拡大した状態から始まるので、エリアを広くしてからご覧ください。
この遠回りをするルートを見ても、6月2日は1泊し、6月3日に京都へ着く行程であったこともわかります。
4. 家康は毛利討伐の出陣予定だった
『家忠日記』の6月3日条(本能寺の変が伝わる直前)には、家康の毛利攻めについて書かれています。
「三日、京都酒左衛門尉(酒井忠次)所より家康御下候者、西国へ御陣可有之由申来候、さし物諸国大なるはたやミ候て、しない成候間、其分申来候」(家忠日記)
京都にいる酒井忠次が三河深溝にいる家臣の松平家忠へ、家康が帰国したら西国(中国・九州地方)へ出陣すると伝えています。
また「諸国(織田の各国部隊)」は大きな旗指物は使っておらず "しない(撓:小旗の一種)" を使っている(ので我ら徳川軍も合わせるように)と伝えられています。
標準的な使者の移動距離(私は使者の移動速度をよく調べていますが、緊急時を除く平常時は1日40~50kmの移動距離です。江戸時代の飛脚のように走っているわけではなく、普通の速度で1日歩いて移動しています。)から逆算すると、
おそらく家康一行が京都から堺へ向かう5月28日頃に、三河深溝へ出された命令かと推測します (この年の5月は旧暦の小の月に当たり、29日が末日)。
家康は京都に来る前の安土城で、信長から西国出陣を頼まれたのではないでしょうか。
共に西国へ出陣する上方諸国の軍が使っている旗指し物の種類まで指示があったことから、家康は毛利討伐の準備を進めていたことがわかります。
徳川軍も毛利攻めに参戦するところだったことはあまり知られていないですし、もし謀反が起きなければどうなっていたのか、想像するのが楽しい記録です。
(※「しない」は小型で柔らかくしなりやすい旗を意味するのだそうです。出典:『松平家忠日記』盛本昌広 (著) 角川選書)
追記)
『老人雑話』にあるように、家康は手勢もおらず重臣が揃っていた状況だったので、信長は家康を討つのでは?と世間で噂が立つのも無理はないと思います。しかし実際はこのように信長から援軍要請が出ていました。
また信長は武田征伐後に徳川家から各宿場で接待を受けた際、家康や徳川家臣へ馬・太刀・黄金・2万石などを与えています(家忠日記増補追加)。また三河・遠江の国衆へも兵糧を送っており(家忠日記5月7日条)、両国の関係に問題はありませんでした。
5. 信長の上洛は少人数が多い
本能寺の変の際、信長は「小姓衆二、三十人」(信長公記)で上洛していたため、油断していたのではないかとよく議論になります。
しかし、史料には信長が少人数で上洛した記録は何度も書かれています。
元亀元年の際は「四、五騎にて上下三十人ほど」(言経卿記)で上洛、天正3年は「小姓衆五、六名」で上洛(信長公記)とあります(ホントかなと思うくらい少ない)。
他には「馬廻りのみ」、「少人数」で上洛したという記述もあります。
何度も実施された上洛の度に逐一人数が記録されているわけではないですが、軍勢を連れた出陣途中の上洛を除き、信長が大勢の御伴を連れて上洛した記録は私が調べた限りではありませんでした。
(永禄13年の家康が随行した上洛は、さすがに警固の兵がいたと思われます)
このように信長は身軽に行動する特徴があるので、本能寺の変の際も少人数で上洛したことにミステリーはありません。
6. 信忠討ち計画が成立しない
光秀が本当に織田家を倒す計画を立てたのであれば、形式上とはいえ織田家当主であり信長の後継ぎとなる信忠を討つ計画も立てたはずです。
もし信忠が生き残れば織田家はこれまでと変わらず存続し、謀反人扱いとなる光秀に勝ち目はないからです。つまり信長討ちと信忠討ちの重要度は同じです。
にもかかわらず「431年目の真実」には信忠のことは光秀の味方についた家康にまかせると一文があるのみで、これでは計画を立てたとは言えません。
もはや考察することすら不要ですが、仮に家康が堺で信忠を討てたとして、どのようにして40名の家康一行は徒歩で脱出するのでしょう。
史実で伊賀越えの案内役を行う信長側近 長谷川秀一ら織田の武将も討たないといけないので、道がわからなくなります。
また信忠を討って謀反を起こした場合、その情報は早馬により宇治田原城や周辺の城へ短時間で伝わるはずなので、家康一行は城を通過することもできません。
家康がこのような役を引き受けるはずもなく、あまりに非現実的なので筆者も説明ができないようです。
史実の本能寺の変では、信忠は安土へ退去する十分な時間がありましたが二条新御所で自害したため、光秀は運よく信忠も討ち取ることができました。
7. 秀吉黒幕説は難しい
本能寺の変は黒幕説が話題になることが多く、中でも秀吉の黒幕説は有力視されています。一番得をした人物が首謀者だと言われれば、確かに説得力がありますね。
本書でも秀吉は事前に謀反を知っていた黒幕として書かれています。
しかし本能寺の変後、斎藤利三が早くも6月5日に長浜城を占拠していて(多聞院日記)、長浜城にいた秀吉の家族(妻ねね、母のなか)は捕えられてしまうところでした。
幸いねねは地侍の広瀬兵庫助(長浜城築城の際に秀吉に協力した人物)によって助けられ、秀吉は広瀬兵庫助に感謝状を出しています。
(この秀吉の感謝状は以前から『甲津原文書』で写しが確認されていましたが、2015年に原本が発見されたことで事実と認定されました。)
家族思いの秀吉がこの戦火となる近江に妻を残していたという事実から、秀吉黒幕説は難しいと思います。
中国大返しで引き返す秀吉が、ねねの無事を知ったのは山崎の戦いが終わった後でしょうか。
※この点について筆者は、秀吉は予め広瀬兵庫助に救助を頼んでおいたと説明しています。
8. 秀吉にいち早く伝わったわけではない
また秀吉黒幕説の理由として、秀吉はいち早く本能寺の変の情報をキャッチしたとよく言われます。
しかし実際は他の織田・徳川領へも早く届いていました。各地へ情報が伝わった例をまとめてみます。
三河深溝城には6月3日酉刻(18時頃)に本能寺の変が伝わりました。(家忠日記)
京都から深溝まで(実際は伊勢湾の海上ルートも含みますが)約160kmの距離を、1日半で届いています。
越中で交戦中の柴田勝家には、6月6日に本能寺の変が伝わりました。(柴田勝家書状)
上杉景勝は6日夜に柴田軍が撤退したと書いています。
京都から越中宮崎城(柴田勝家がこの城にいたと仮定した場合)までの距離は、光秀の坂本城を避け琵琶湖東側を通るとして、街道計測で約380km離れています。
届いたのが6月6日の昼と仮定すると、4日間と少しで届いています。
上野 厩橋の滝川一益(3か月前の武田滅亡後に関東へ赴任したばかり)には、6月7日に伝わりました。(北条五代記)
京都から厩橋まで中山道経由の約420kmを、5~6日で届いています。
自国領内であれば継飛脚の整備ができているため、険しい峠もありながら各地へ1日100km近い速さで変の一報が伝わっています。
秀吉の備中高松には6月3日夜半(秀吉は書状により「四日」とも書いているので日付が変わった頃か深夜)に届いています。
京都から備中高松までの約230kmを2日近くで届いたなら、他の地域と同程度の伝達速度になります。
秀吉だけが早く知ったということはなく、実際は先に徳川領へ伝わっているほどでした。
追記)
筆者は、秀吉は光秀の謀反計画を細川藤孝から知らされていて、予め秀吉家臣 杉原家次を家康一行に潜り込ませたのだそうです(史実でも同行していた)。そして謀反が起きると、いち早く杉原家次が備中高松へ知らせたと言っています。
ツイートでも冗談で書きましたが、秀吉が事前に謀反計画を知っていて実行を即知りたいのであれば、箱根駅伝のように飛脚を短い区間ごとに配置しておけばよいのです。
面白いことに箱根駅伝は10区間で217kmなので、備中高松~京都とほぼ同じ距離です。
早飛脚で継リレーを行い、午前6時に京都をスタートして10時間で移動できれば、6月2日の午後4時には備中高松に到着できますね。
実際は謀反が起きることなど知らないから、秀吉にも他の地域と同じ伝達速度で伝わっているのです。
すでに筆者の説は崩れていますが、ここからは軍隊や使者の移動速度から判明した動きや書状のやりとりを中心に、新たに気づいた点をまとめています。
中国大返しの移動速度
筆者は秀吉の中国大返しを「想定をはるかに超える速さ」と何度も速さを強調し、それは光秀の謀反を知っていて事前に準備していたためと説明しています。
しかし実際に計測すると中国大返しは標準的な軍隊の移動速度なので、光秀が本当に用意周到な計画を立てていたのであれば想定は可能でした。
ここでは秀吉の行軍速度を詳しく計測してみます。
筆者は「431年目の真実」のp.215に「想定をはるかに超える速さ」と書いていたり「スピード」という言葉を使っていますが、対応の早さという意味だったようです。
軍隊の標準速度は1日約24km
一般的に歩兵を含む大部隊の移動距離は、1日平均24km程度と言われています。
その根拠として、『甫庵太閤記』には朝鮮出兵の際、秀吉は部隊の行軍を「一日六里(約24km)」を基準とし、あとは宿場に合わせて距離を増減するように定めています。
総重量20kgなどになる歩兵の疲労を考慮し、到着後に戦闘を開始できる体力温存を考えればこの程度のペースが基準になっていたようです。
(旧日本陸軍の「作戦要務令」にも1日24km行軍が定められていて、歩兵の移動速度は戦国時代と全く同じであることがわかります。)
実際に様々な史料を基に行軍速度を計測してみると、1日の移動距離はだいたい25~30km前後の範囲に収まっています(騎馬隊のみの場合は1日50km前後)。
速い記録は騎馬移動
行軍が速い例もあるので先にご紹介しますと、慶長5年、関ヶ原の戦いの前に徳川家康本隊(兵数30,000)が江戸(9月1日)~清須(9月11日)まで移動した記録があります。
江戸から清須(東海道+鎌倉街道(尾張))までの距離をGoogleマップで計測すると約371kmでした。
それを11日間で移動したので、1日平均は33.7kmの移動速度になります。
これはかなり速い記録ですが、家康は出陣が決まっていたので街道の宿泊設営、物資運搬など下準備を全て整えた状況でした。
またこれは騎馬による、家康が移動した記録と思われます。(海外の軍隊の行軍についても調べましたが、大部隊で1日30km以上の行軍は例がありません。)
関ヶ原の戦い前の状況は、福島正則ら各隊が既に進軍しており(8月に岐阜城攻略)、家康本隊は後方にいたので、本隊の歩兵は遅れて到着しても本戦に影響はなさそうです。
もう一つの例としては、天正18年の小田原征伐後に秀吉が京へ帰還するまでの行軍があります。
奥州仕置を終えた秀吉は8月12日に会津を出発、9月1日に京都へ到着します。中山道を経由したとして約650kmの距離を20日間で移動したので、1日平均は32.5kmです。
※大日本史料によれば、秀吉は東海道を通り、おそらく騎馬にて移動したとのことです。全軍での京都到着日は不明なため、この中山道経由は行軍速度の資料にはなりませんでした。情報提供ありがとうございます。
このように、軍隊の移動記録は騎馬隊と歩兵を意識して検討する必要があります。
さて秀吉の中国大返しはどうでしょうか。
中国大返しは1日25km行軍
備中高松城から摂津富田(6月12日着)まで移動した、中国大返しの行軍速度を計算してみます。(6月13日は摂津富田~山崎の10kmしか進まないため除外します)
備中高松城~摂津富田までの距離は、西国街道の計測では約202kmでした。
秀吉の中川清秀宛書状に従って6月5日出発とすると、8日間移動となり、1日平均は25.3kmの移動速度になります。
(後に秋田愛季へ宛てた書状では「5日まで滞陣」と書いているので、6月5日の朝からではなく午後になって撤退を開始したのかもしれません。)
速いイメージのある中国大返しですが、1日平均25.3kmという標準的な速度で移動しているのです。
私が紹介するまでもなく、ネット上では以前から中国大返しがイメージされているような速さではなかったことが指摘されています。
※街道計測はこのようにグーグルマップを用いて行いました。街道から外れる区間もあり、その場合は現在の道で補って計測しています。繰り返し計測を行いましたが、計測の度に多少の誤差はあります。
※実際の行軍は長い隊列になったと思われ、最後尾の兵は1日遅れの出発と1日遅れの到着になったと思われますが、煩雑になるのでここでは省いています。
中国大返しの移動速度を推測できる史料はいくつか確認できます。
羽柴秀長家臣の杉若無心は細川家の松井康之宛の書状で、「6月6日に秀吉は姫路(備中高松から約95km先)に着いた」と書いています。
騎馬移動であれば2日間で100km移動が可能なので、6月5日の早い時間から備中高松を出発すれば到着できそうです。
ただ秀吉は中川清秀宛書状で「今日(6月5日)は成り行き次第で沼城(備中高松から約25km先)まで行く」と書いていて、6月5日は沼城まで進んだ場合、6月6日に姫路へ到着するには、沼城から姫路まで約70kmを1日で移動することになります。
これは本当に苦労の末の長距離移動をしたか、または杉若無心がまだ着いていないのに6日に姫路に着いたと誇張して伝えた可能性が考えられます。
『惟任退治記』には秀吉は6月6日に沼城へ入り、翌7日は大雨の中移動して姫路に着いたという有名な話が書かれています。この書物では日付が1日ずれていますが、こちらも各史料と似た移動行程となっています。
いずれにしても中国大返しの移動速度は歩兵を含む全軍の日程で判断するため、秀吉自身の騎馬移動は重要ではありません。
先に進んだ秀吉は6月8日に姫路で行軍を休止するので、歩兵はここで遅れて合流したと思われます。
参考として、他の秀吉の行軍記録も掲載しておきます。
天正8年6月19日に長宗我部元親へ宛てた手紙(『紀伊続風土記』に収録)の中に、宇喜多軍を助けるため秀吉が強行軍をしたような記述があります。
3月25日に長浜城を出陣して翌月の閏3月2日の三木到着まで推定約160~170kmを7日間移動していて、「人馬の疲れも省みず昼夜の境もなく馳せ上った」と秀吉は書いていますが、計算するとこれまた1日約24kmのペースです。
自身の行軍を誇張するのは秀吉の特徴であり、そもそも標準速度なので速くありません。
歩兵を限界まで速く移動させても個々の体力差で隊列はバラバラになりますし、目的地に着いても戦闘を開始できる状態でなければ意味がないわけです。
結論としては目的地へ到着後に戦闘開始を想定した大部隊の行軍速度は、天候や地形などの悪条件がある場合を除いてだいたい同じ、ということです。
備中高松~山崎までは約200kmの距離なので、1日25kmで進軍するとちょうど8日間移動になります。
標準で1日24kmを移動する軍隊としては "もともと8日間の距離" であり、秀吉の行軍速度自体は光秀にとって想定可能だったことになります。
備中高松の戦いは終わっていた
備中高松から撤退する手際の良さも秀吉黒幕説の理由になっていますが、史料を読むと撤退できる状況は整っていました。
秀吉は4月から備中七城を攻勢、5月初旬から高松城の水攻めを開始します。(『甫庵太閤記』によると5月1日から水攻めを開始、城が水に浸かるのは5月10日頃)
小早川隆景は4月に援軍として到着(4月23日付中川秀政宛秀吉書状)、5月に毛利輝元・吉川元春が到着します。
しかし輝元は備中高松城から20kmも後方の猿掛城に留まり、小早川隆景・吉川元春も増水のため足守川の手前で布陣し、交戦することなく対峙が続きました。
毛利側の『萩藩閥閲録』によると、秀吉は安国寺恵瓊を呼び寄せて高松城主清水宗治の切腹を要求、恵瓊はその要求を輝元へ伝えますが輝元に拒否されます。
そこで恵瓊は密かに高松城へ入り、清水宗治に切腹を伝え、清水宗治は城兵の救済を条件に受け入れて6月4日に切腹が決まった、という内容が書かれています。
『甫庵太閤記』では6月3日に清水宗治が切腹を申し出る書簡が紹介されています。また清水宗治は息子に「身持ちの事」という6月3日付の遺言書を残しています。
秀吉が本能寺の変を知るのは上で書いたように、6月3日夜半または4日です。おそらく日付が変わった頃か深夜でしょう。
このように秀吉が本能寺の変を知る前に城主の切腹まで戦況は進んでいたので、残るは毛利との領土交渉を残すのみという状況でした。
秀吉が素早く撤退できたのは光秀の謀反を知っていたからではなく、備中高松での戦闘が終結していたからです。
毛利との交渉内容がわかる一次史料は少ないですが、輝元は満願寺宛で
「当陣之儀ハ先以惣和談相調候、羽柴引退候、此方之儀者恐々中途迄帰陣候、尚吉事重畳可申承候」(6月6日付満願寺文書)
と両軍が兵を引いたことを「吉事重畳」と喜んでいるので和睦を望んでいたようです。
また輝元は
「将又此表之事、羽柴和平之儀申之間、令同心無事候、先以互引退候」(6月8日付寄組村上文書)
と秀吉が和平を申し出たと書いています。
また羽柴秀長家臣の杉若無心の書状では、領土交渉は三か国譲渡に決まったと書かれています。
秀吉はどの書状でも毛利から五か国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)譲渡を申し出てきたと自慢げに書いていますが、実際はこの杉若無心の記述から三か国で譲歩したと考えられています。
変の一報を聞いた秀吉は、素早く撤退するため毛利に悟られることなく(実際に毛利家が変を知るのはさらに3日後の6月6日)、手際よく交渉をまとめたのでしょう。
このあたりの駆け引きは秀吉の優れた才能であると思います。
秀吉は数日で落城すると伝えている
この備中高松の戦況は、光秀も把握していたと考えています。
高松城を包囲する秀吉は5月15日頃、信長に援軍を要請します。『信長公記』では信長が援軍要請を受けて有名な「中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰せつけらるべき」と大号令をかけることになります。
そして5月19日、秀吉は越中にいる柴田勝家へ書状(与力の溝江長澄宛)を送り、高松城は守りが堅いので水攻めにしたこと、「端城の土居を水打越」と水攻めが進んでいること、また落城は「十日五日の内」(数日の内、との意味)と伝えています(『豊臣秀吉文書集』1巻-419号)。
このような戦況報告が越中にまで届いているということは、信長・光秀のいる上方にも5月21日頃には届いていたと考えていいでしょう。この時点で光秀は坂本城にいます(亀山城へ戻るのは5月26日頃)。
援軍の総大将とも言える光秀に、水攻めをしている備中高松の戦況が伝わらないというのは考えにくいです。秀吉は信長に戦況報告を行うので、その情報は光秀に伝えられたでしょう。
仮に伝わっていなくても、もし光秀が本当に謀反を計画していたのであれば、備中の様子が気になって自ら情報を集めるはずです。
宣教師フロイスも、これは後に知った情報かと思いますが「すでに彼ら(毛利)を大いなる窮地に追い込んでいた」、また和を講じて急遽帰還の準備を始めた、と備中高松の様子を記述しています。
※フロイスは軍部の情報はわからないと書いていましたが、戦況を把握してる文章がありましたので修正しました。
秀吉の報告をもとに判断すれば5月末には落城していますし、謀反決行の頃は戦況が変わっているかもしれない、と予想できたことになります。
秀吉は宇喜多を押さえとして撤退可能
高松城から東10kmには宇喜多家の本拠地である岡山城(石山城)が位置しています。
秀吉が撤退しても秀吉の宇喜多軍1万の兵は当然その地に留まるので、秀吉は宇喜多軍を押さえとして残すことができました。
毛利方は秀吉が急ぎ撤退したことを不審に思ったはずですが、もし毛利軍が追撃して東へ進軍すれば、まず宇喜多家との全面戦争が始まることになってしまいます。
このように毛利が追撃しにくい状況も、当時の光秀なら想定できたと考えます。
秀吉軍の補給物資は十分だった
秀吉軍の兵糧など補給物資は準備できていたのか、という問題ですが、あるWEB上の記事で藤田達生氏が取り上げていました。
兵站の視点から考えると、準備をしていないと中国大返しは不可能だったとこちらの記事で結論付けていました。
藤田氏は播田安弘氏という方の検証結果を紹介し、兵士の平均体重とエネルギー消費量から、兵数1万だと毎日おにぎり20万個が必要で、また飲料水は毎日約2万L、その他味噌や塩、梅干しなどの副食品、武将用の騎馬900頭、輸送用の駄馬は1050頭が必要だったとのこと。(兵站の視点も興味深いです)
これをすぐに準備するのは不可能。よって秀吉は対応策を周到に準備していたとのこと。
しかし、実際には信長の大号令で5月中旬から毛利攻めに大軍が向かう準備をしているわけです。高山右近と中川清秀ら摂津衆は実際に出陣していましたし、信長と徳川軍も出陣するなら10万に近い大兵力でしょう。
そのため備中高松へ向かう山陽道の宿営地には、秀吉軍の何倍もの兵数を想定した水や米、兵糧馬糧の補給物資を準備していたことになります。
また姫路城がある播磨は秀吉の領国、備前も秀吉配下の宇喜多領ですから、その隣国で交戦する秀吉軍には後方から十分な兵糧を送ることができました。
当時の兵士が携帯していた、兵糧丸(米や蕎麦粉の団子)や干し味噌団子などの日持ちする保存食も、大量に準備されていたと思われます。
そのため上方へ向かう秀吉軍は食料に困ることがなく、補給物資の問題はおそらく一切なかったと思われます。
この藤田氏のWEB記事を紹介したツイートでも、リプライで多数の方が同じことを指摘されていました。容易に反論できますよね。
このように兵站を考えるのであれば、次の柴田勝家は敵国を侵攻していたので、むしろこちらの方が引き返すのは不可能だったことになるのではないでしょうか。
柴田勝家は200kmを3日で移動
2018年に「6月10日付 溝口半左衛門宛柴田勝家書状」が発見され、本能寺の変後の柴田勝家の動きが判明したことで話題になりました。
それ以前に発見されていた勝家書状と合わせて検討することで、本能寺の変を知った勝家がどのように行動していたのかが明らかになってきました。
勝家もすぐに撤退していた
世間の評価として、柴田勝家は本能寺の変では出遅れたと言われます。ただ、史料を見ると素早く撤退していたことがわかります。
柴田勝家は越中で前田利家・佐々成政らと上杉の魚津城を攻撃していて、6月3日に落城させます。
続いて宮崎城を攻略した頃、6月6日に本能寺の変を知り、同6日の夜に撤退を開始しました。(6月9日付 上杉景勝書状)
背後の上杉軍や一揆勢に対しては、佐々成政や前田利家、佐久間盛政を押さえとして配置します。
そして新たに発見された6月10日付勝家書状(丹羽長秀家臣の若狭 高浜城留守居役 溝口半左衛門宛)には、
本能寺の変を聞いて6月9日に越前北ノ庄城(宮崎城から約207km南)へ戻ったこと、大坂で丹羽長秀が津田信澄を討ったことを然るべきとし、光秀が近江にいること、また各将で連携して光秀を討ち果たすべきと書かれています。
(この書状はまず丹羽長秀領の若狭を経由して大坂へ向かうはずでしたが、丹羽長秀は6月12日頃に秀吉と合流して光秀と合戦を行うため、実際は届く前に状況は変わっていました)
以前から確認されていた柴田勝家書状でも勝家が北ノ庄城に即戻ったことは確認されていたので、より信憑性が増した印象です。
(この6月10日時点で柴田勝家は光秀の動きを把握できていなかったと藤田達生氏は指摘していますが、光秀が京→安土→京(6月9日)と移動したことはまだ知ることができません。
下にあるように勝家の最初の連絡は6月10日頃に大坂へ届いたようですが、その飛脚が北ノ庄城へ戻るのに早馬の乗り継ぎでも2~3日後になります。)
勝家の動きは、6月10日付中川清秀宛秀吉書状にも書かれています。
「柴修(柴田勝家)越中表相随付候て、急而可馳上旨、五郎左衛門(丹羽長秀)書状披見、指越候」
と大坂の丹羽長秀が、越中の柴田勝家から書状が届いたと秀吉に報せたことを、6月10日に秀吉が中川清秀へ伝えています(勝家が変の報せを聞いた6月6日頃に大坂へ最初の飛脚を送っていたことになる)。
勝家はこの6月10日頃に大坂へ着いたという飛脚が越前に戻れば、その頃光秀が下鳥羽付近にいた動きを把握できることになります。飛脚が越前に戻ったのは山崎の戦いが起きた6月13日頃でしょうか。
そして前田利家書状から推測すると勝家は山崎の戦いの決着を6月15日か16日に把握し、16日に先鋒の足軽部隊 柴田勝豊・佐久間盛次・柴田勝政を出陣させます。
(6月15日付 柴田勝家書状 大阪城天守閣所蔵)(6月17日付 前田利家書状 中村不能斎採集文書)
※この山崎の戦いの結果を越前へ伝えた飛脚も非常に速いです。秀吉は6月14日に大津で首実検をして光秀の首を確認しますが、その光秀を討ち取った情報が北ノ庄城までの約140kmを翌15日か16日には届いて伝わっています。
勝家も北ノ庄城を出陣して南下、6月18日に近江の長浜付近へ進軍します。(6月18日付 近江坂田郡加田荘 禁制)
6月16日の北ノ庄城出陣で18日に長浜へ到着しており、約90kmの距離を3日間なので、ここでは1日約30km移動と早くなっています。
一方、秀吉は山崎の戦いの後は大津で首実検を行い、6月16日に安土へ着きます。(惟任退治記)
そして秀吉は(おそらく翌6月17日より)長浜城の阿閉貞征、佐和山城の山崎片家ら明智勢を降伏させています。
勝家はあと1日到着が早ければ、近江北部の明智勢を攻撃するところだったようです。
近江ということで、日野城の蒲生氏郷の動きも確認しておきましょう。
6月8日、安土城にいた明智秀満に対し、蒲生氏郷は近江へ進軍した織田信雄家臣の小川長保より加勢を受け、日野城を出陣していました。(寛永諸家系図伝)
このように明智勢が占領した安土城は、秀吉と柴田勝家以外に南東方向からも織田軍がけん制している状況でした。
※蒲生氏郷は軍記物では日野城に籠城したとされていますが、『寛永諸家系図伝』では城から出て陣を張っていますし、氏郷は6月9日に八日市の常願寺、10日に安土山の西にある長命寺へ禁制を出しています(北村又三郎氏文書)。安土付近の寺社が蒲生軍兵士の乱暴・狼藉を止めてもらうよう依頼していることから、町の人々も蒲生軍の進軍を予測していたことになります。
勝家は移動距離が長かった
次に、柴田勝家の移動距離を調べてみます。
勝家は6月6日に越中宮崎城(本能寺から中山道+北陸道を通る街道計測で約379km先)で変の一報を受けて南下し、6月9日に越前北ノ庄城まで引き返しました。
宮崎城から北ノ庄城までは約207kmの距離で、それを3~4日で引き返しています。
4日間だと1日50km移動(3日間と考えれば1日70km)となるので、歩兵を残した騎馬部隊のみの移動と推測できます。
※北陸街道の一部の計測区間です。このように旧北陸街道は何度も折れ曲がる区間が多く、Googleマップでの現在のルート計測より距離は長くなります。
そしておそらく全軍が越中から戻るのを待って勝家は6月15日頃に北ノ庄城を出陣、6月18日に近江長浜へ進軍することになります。
秀吉は京都から西国街道計測で228km先の備中高松で本能寺の変を知りました。一方、勝家は京都から379km先の越中宮崎で変を知ったため、勝家は秀吉より150kmも遠方にいたことになります。
この150kmの差というのは、越中へ変の一報を伝えるのが継飛脚(リレー形式)としても1日~2日かかる距離で、それを聞いて撤退する柴田軍が1日25km行軍として約6日かかる距離になります。
従って勝家は秀吉より7~8日ほど遅れて京都に着いたとしても、秀吉と同じ移動速度ということになります。
しかも近江へ入るには敦賀付近の険しい峠越えがあるので、難所の少ない秀吉より少し不利でした。
山崎の戦いが行われたのは6月13日。勝家は6月18日に長浜付近へ進軍したので、仮に近江に明智勢がいなかった場合京都には6月21日頃に到着できた計算となり、8日遅れの到着になります。
この計算から柴田軍も秀吉と同じく最短で撤退を開始、そして同じ移動速度だったことが推測できます。
秀吉の動きが圧倒的に早いと感じるのは、勝家より150km近い場所にいたから、ということになります。
勝家や家康も1日25km行軍
もう必要ないかと思いますが、柴田軍と家康の行軍速度も計算してみます。
越中宮崎を6月7日に出発したとして長浜へ6月18日に到着した場合、越中宮崎~長浜までの街道計測は約295km、それを12日間で移動したので1日平均24.6kmの移動速度となります。
(上記のように1日30km行軍もあったようなので、あくまで越中で変を知ってから長浜に進軍するまでの行程全体の計算になります。)
また同じ頃、徳川家康は光秀討伐に京都へ向かうため、6月14日に岡崎城を出陣(家康は伊賀越えを終えて岡崎城に留まり兵を終結させていた)、その日に西の鳴海へ到着しました(家忠日記)。移動距離は約25kmです。
6月17日には酒井忠次隊が鳴海から津嶋まで約28kmを移動しました。
宿場に合わせた距離の増減はありますが、ここでも歩兵を含む全軍の行軍速度は1日六里の24km前後となっています。
本能寺の変での光秀の動きは疑問に感じる部分が多く、こうすべきだったなどとよく議論になります。
次に、本能寺の変における光秀の判断ミスを検討してみます。
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謀反失敗の原因
雑賀衆を利用しなかった
光秀は確実に協力者となってくれる、紀伊の反信長派に謀反を伝えていませんでした。
むしろ雑賀衆の土橋重治の方から6月12日頃になって光秀へ、「入魂したいので和泉・河内へ出陣する」と伝えてきたほどです(森家文書)。
また本願寺顕如も光秀に協力するため、6月11日に下間少進を紀伊から派遣していました(宇野主水日記)。
謀反の実行を決めたのであれば、光秀は決行日にでも紀伊へ密使を送るべきでした。決行日に使者を出せば仮にどこかで捕えられ計画が漏れたとしても、信長を討つことに影響はありません。
紀伊の反信長勢力がすぐに北上していれば、堺にいて兵が離散した信孝を南から攻撃することができましたし、中国大返しで引き返して来た秀吉も反信長勢力と戦わざるを得なくなるので展開はもう少し違っていたはずです。
筆者の説とは関係なく、史実の光秀の行動は謎が多いです。
事前に毛利へ伝えるべきだった
光秀は毛利に対しても謀反を伝えていませんでした。
輝元がどこまで行動を起こすかは別として、秀吉を備中で足止めさせるにはこの方法しかないわけです。
しかし毛利家の史料を見ると事前に光秀からの連絡はなかったようです。
このように事前工作をしていなかったのは光秀のミスですが、工作がないのであれば突発的に起こした謀反と考えるのが自然かと思います。
(あるいは作り話が多いとされる『川角太閤記』にある光秀の密使は真実で、決起前後に密使を出していた可能性はあります。
光秀は上杉家へ協力を伝えたり美濃野口城の西尾光教への書状が残っているので、変の当日からは各所へ密使を送っただろうと考えています。)
摂津の諸城を押さえなかった
史料を見ると多くの織田家臣は当初から反光秀の立場を取りますが、それぞれの居城は西国出陣のため手薄となっていました。
しかし光秀はそれらの諸城を押さえることもしていませんでした。
高山右近
『フロイス日本史』によると、高山右近の居城である高槻城内では当初から一致団結して反光秀を決めていました(右近は出陣しており城内は家族や一部の家臣のみ)。
光秀は高槻城へ使者を送りますが、城を奪わないことを伝えるだけで人質を要求しませんでした。城内の高山右近の妻や家臣らは、明智方につくという嘘を伝え、使者を帰しています。
高山右近は光秀の与力(2年前に佐久間信盛が追放されたことで光秀の組下となった)であって光秀の家臣ではないので、謀反人に協力する理由はありません。
しかも高山右近は天正6年の荒木村重謀反の際にも村重の組下という立場でしたが、中川清秀とともに信長に帰参しています。
この例がありながら、史実の光秀は右近が自分の味方につくと決めつけているのが不思議です。
フロイスは、兵士のいない摂津の諸城を押さえなかったことが、光秀の滅亡の発端であると書いています。
中川清秀
備中の秀吉が中川清秀へ、信長は無事脱出したと嘘を伝えた6月5日の書状(梅林寺文書)は有名ですが、この書状は「御返報」とあるので中川清秀から届いた書簡への返書になります。
(中川清秀は備中へ行軍中だったので秀吉より先に変を知ることになります)
中川清秀は光秀の謀反を聞いていち早く秀吉に伝えていることから、当初から反光秀の立場でした。
光秀は高槻城から近い、中川清秀の居城である茨木城も押さえていませんでした。
池田恒興
兵庫城主(?)の池田恒興の動向は一次史料がないのでわかりませんが、『武功夜話』によると中国大返しで戻ってきた秀吉と尼崎城で対面したそうです。
それ以上の動向は不明ですが、池田恒興の母養徳院は信長の乳母です。織田家と関わりが深い武将なので反光秀であることは明白です。
細川藤孝
丹後宮津にいる細川藤孝は多数の文献から判断すると、変の一報を受けてすぐに反光秀方となりました。中国大返しの動きを見て秀吉についたわけではありません。
細川家であれば親しい間柄であり味方につけば周囲への影響も大きいので、光秀には誤算となりました。
ただ石高の少ない丹後宮津ですから、兵を出しても2,000程度の戦力と思われます。
筒井順慶
『多聞院日記』によると本能寺の変の時点で筒井順慶の兵数は6,000~7,000だったそうなので(6月15日条「順慶…昨今立人数六七千可在之ト云」)、秀吉の接近を知って光秀から離反したことは、光秀にとって大きなダメージとなりました。
ただ筒井順慶は迷っていたようで結局秀吉にも兵を送らなかったので(後に秀吉に曲事とされた)、立場は微妙と言えます。
秀吉も筒井軍の兵力を生かすことができず、結果としてどちらの戦力にもなりませんでした。
丹羽長秀
先ほど紹介した6月10日付 中川清秀宛秀吉書状には、大坂の丹羽長秀は柴田勝家から急ぎ向かうと伝えられたことが書かれていました。
丹羽長秀は言うまでもなく織田家の重臣で光秀につくはずもなく、さらに勝家から連絡があったことで摂津衆の連携は強化されたと想像できます。
このように摂津衆は当初から反光秀だったので、光秀は摂津の諸城を押さえなかったことも謀反失敗の大きな原因となっています。
結果的に山崎の戦いでは、この摂津衆の包囲攻撃を受けて明智軍は総崩れとなりました。
不可解な山崎の戦い
その摂津衆の攻撃により敗北した山崎の戦いは、どのような戦を行なったのかを兵法の視点から確認してみます。
山崎の戦いで光秀は平地決戦を挑み、勝龍寺城近くにある恵解山古墳(または境野1号墳)に本陣を構えました。
『孫子』の兵法では狭い「隘路」と「高地」は先に占拠して敵を迎え撃てとあり、もし敵が隘路を固めた場合は戦ってはいけないとしています。
『呉子』でも小勢で戦う場合は平地を避けて隘路で迎え撃てと説いています。
しかし光秀は6月10日から下鳥羽や山崎にいながら、西から来る秀吉軍を狭い「隘路」である山崎村と「高地」の天王山で迎え撃つ作戦を選択せず、山崎を捨てて東側の平地に布陣してしまいます。
そのため6月12日、秀吉軍の高山右近と中川清秀に山崎村を占拠されました。
山崎村は東西に門がある細長い街道集落で、フロイスは「大きく堅固な村落」と表現しています。また東門の東側は淀川まで湿地帯を含めて広い土地があり、川沿いを池田恒興が進軍しました。
6月13日、明智軍の先手が山崎村に進軍して東門を叩き、高山右近がそれに応じて門を開けたことで戦闘が開始されます(フロイス日本史)。
敵地へ侵攻していたはずの秀吉軍ですが、なぜか隘路で明智軍を迎え撃てるという、理想的な形で戦闘を開始しています。
高山右近は劣勢になっても集落に引いて城門のように戦うことができるので有利でした。また中川清秀は山手沿いから進軍して攻撃しており、丘を背に戦う部隊は兵法では有利となります。
結果的に明智軍の先鋒は池田恒興と中川清秀に左右から挟撃されて全軍総崩れとなりました。光秀自身は勝龍寺城に近い場所から動かず、一体何を考えていたのでしょうか。
先に戦場に着きながら平地に布陣し、兵法でしてはいけないとされる地形的に圧倒的不利な位置へ進んで戦闘を始めており、兵法など考えていない気がします。
この山崎の戦いでも光秀の行動は謎が多いです。
※6月9日付 細川藤孝宛明智光秀書状は、別ページを作成するため削除しました。
※安土城放火についても、別ページを作成するため削除しました。
総括
明智憲三郎氏の説への疑問点と、本能寺の変についての持論を交えて書いてみました。
光秀の謀反は、実行すれば一斉に仇討ちが始まる(後継者レースが始まる)ため、毛利や雑賀衆へ事前工作なしで勝算がある計画を立てることは困難だったと思います。
また嫡男信忠は運よく討てたわけですし、宣教師が書いているように織田信孝は兵が離散していなければ光秀を攻撃していましたし、調べるほどに光秀に計画性を感じなくなっていきます。
このような謀反であれば坂本城で自害した明智一族の人々、織田家臣として忠実に従っていた織田信澄は無駄死にであり不憫です。
謀反の動機は難しいですが、個人的にはフロイスが書いた足蹴と、二次史料ですが『武家事紀』にある斎藤利三引き抜きの件で信長が光秀を殴る話を根拠に、私は消去法で怨恨説を支持しています。
ただ信長から2、3度叱咤された程度で謀反を起こすことはないと思われるので、単なる恨みというよりは信長の恐怖政治を変えなければならない、という強い意志があった、との推測です。
お決まりの答えですが千載一遇のチャンスで信長を討った、ということになります。
細川藤孝へ書いたように、光秀の計画としては畿内を固めて息子たちに引き継ぎ、明智家が支配するという構想を立てていた程度ではないでしょうか。
しかも宣教師の記録では、光秀は安土城にあった信長が日本全国から集めた金銀財宝を、朝廷や寺社以外にも家臣や知人、貴人や貧者、ただ財宝目当てに集まった人々にまで惜しげもなく分配し、2,3日で分け与えてしまったそうです。
戦にはもちろん軍資金が必要なため、財宝を処分するということは富国強兵を考えていない、あり得ない行動でもあります。
この野心のなさから光秀は自ら天下を獲るなどとは考えておらず、事件後に美濃野口 西尾光教へ送った「信長父子の悪虐は天下の妨げ」、という文章そのままに、信長父子を討つことが謀反の目的だったと考えます。
裏で光秀を操っていた黒幕説もありますが、史実が判明するとつまらないことが多いので(それを調べるのが楽しいわけですが)、面白そうな説は意識的に避けてしまいます。
秀吉黒幕説はねねを近江に残したことで否定しましたし、足利義昭黒幕説は庇護している毛利へ光秀が謀反を伝えていなかったことから難しいでしょう。
朝廷説もありますが、大義名分はもちろん欲しいと思います。仮に光秀と繋がっている人物がいたとしても、黒幕というよりは光秀の意志と一致した程度かと思います。
また長宗我部元親や斎藤利三を守るために明智一族がリスクを追うとは思えないので、タイミングが合うので動機を補うにはよいですが、四国説もあまり検討していません。
信長を討った後、光秀は宣教師に向かって「このような成果を収めたことを歓喜せよ」(1582年度日本年報追信)と発言しています。信長を討てば皆が喜んでくれると思っていたのでしょうか…
明智憲三郎氏の「本能寺の変431年目の真実」は信長の唐入り構想に注目し、それが謀反の動機につながったとしています。信長の唐入りについては実際にフロイスが書いており、史料に基づいた仮説には興味がありますし着眼点は面白いと感じます。
ただ信長が家康を討つ計画やそれを利用した光秀の謀反計画は、それに当てはまりそうな史料の一部を集めて説を構成させています。
自説に合わない部分となる光秀が安土城の財宝を処分したことや、秀吉の動きを称賛して柴田勝家の記録には一切触れないことなど、これから本能寺の変を真摯に勉強しようとする人たちに正しい情報が伝わるとは思えません。
研究者であれば自分の考えに合わない史料があっても関連史料は公平に紹介すべきで、自説が正しいのであれば堂々と紹介して反論すればよいわけです。
今後も史料が発見されることで本能寺の変の解明は進んでいくと思います。次の新たな発見に期待したいと思います。
P.S.)光秀の年齢捜査についてはこちらでまとめています。