本能寺の変 明智憲三郎氏の説についての批判

(2019年7月9日更新)

最近、本能寺の変明智憲三郎氏の説が認知されるようになってきました。

信長が家康を殺し、徳川領へ攻め込む計画だったという説。

 

以前このページで『本能寺の変431年目の真実』の内容が史料と合わない点をいくつか指摘しました。

しかしその後、筆者が説の一部を変更したことや近年発見された新史料をもとに別の角度からも検証できたことから、記事の内容を修正することにしました。

本能寺の変直前の情勢をおさらい>

本能寺の変直前の情勢をまとめると、織田信長は中国方面に羽柴秀吉、北陸方面に柴田勝家、関東方面に滝川一益を派遣、そして四国討伐に織田信孝を任命し、各地方の平定を進めていました。

天正10年5月、信長は武田討伐後に家康から接待を受けており、そのお礼として家康を安土城へ招いて京や堺を見物させます。

信長は備中高松の秀吉から援軍要請を受けて明智光秀堀秀政高山右近中川清秀らに出陣を命じます。

5月29日、信長は小姓30名とともに安土から上洛、本能寺へ入ります。
そして6月2日早朝、備中へ向かうはずの光秀が本能寺を急襲、信長は討たれることになります。

 

<筆者の説をおさらい>

もうご存じの方も多いと思いますが、筆者の説は信長は上方を訪れた家康を光秀に討たせ、そのまま徳川領へ侵攻するというものです。

信長の唐入り構想を知っていた光秀は明智一族が大陸へ送られることに不安を感じていました。そこへ信長の家康討ち計画を知ったことで、それを利用して家康と手を結んで計画を立て、信長を討ったということです。
謀反に失敗すれば明智一族は滅亡してしまうため、勝算のある計画を立てたのだそうです。

結果的に光秀の謀反は失敗に終わります。それは秀吉の中国大返しがあまりに早すぎたこと、そして細川藤孝や摂津衆が秀吉についてしまったことが原因としています。光秀は50日100日は誰も戻ってこないと考えていたそうです。

 

秀吉の中国大返しについて

筆者は秀吉の中国大返しを「尋常ではない速さ」、「想定をはるかに超える速さ」などと何度も速さを強調しています。
しかし実際に計測すると秀吉軍は標準的な速度で移動していたので、光秀が本当に用意周到な計画を立てていたなら十分予測できました。

追記)
この「速さ」という点に関して筆者がブログで指摘していました。「速さ」ではなく秀吉の対応の「早さ」とのことでした。
『431年目の真実』のp.215に「想定をはるかに超える速さ」と書いていたり「スピード」という言葉がありますが対応の早さという意味なのでしょう。
ただ下の項目でも説明していますが柴田勝家越中から長浜まで秀吉と同じ速度と最短と思われる日数で引き返しています。秀吉だけが早すぎるということはありません。
 

軍隊の標準速度は1日約24km

軍隊の移動速度は距離と日数からある程度の計測ができます。

様々な大部隊の行軍速度を調べると、1日の移動距離は25km~30km前後におさまります(騎馬隊のみなら1日50km前後)。

速い例としては慶長5年、関ヶ原の戦いの前に江戸から清須まで行軍した徳川家康(兵数30,000)の例があります。清須までの東海道+鎌倉街道(尾張)の距離をGoogleマップで計測すると約371kmでした。それを11日間で移動したので1日平均33.7kmの移動速度になります。
これはかなり速い記録ですが、出陣が決まっていたために街道の宿泊設営、物資運搬など下準備が全て整った状況での速度と思われます。

もう一つの例としては小田原征伐後に秀吉が帰還するまでの行軍です。奥州仕置を終えた秀吉が8月12日に会津を出発、9月1日に京都へ到着します。中山道を経由するとして約650kmの距離を20日間で移動したので1日平均32.5kmです。
中国大返しとは状況が違うので比較になりませんが、準備を整えて速い行軍をした記録もあるということになります。

甫庵太閤記』によると朝鮮出兵の際、秀吉は部隊の行軍を「一日六里(24km)」を基準として宿場に合わせて増減するよう定めています。総重量20kgなどの歩兵の疲労を考慮するとこの程度のペースが標準になっていたようです。(旧日本陸軍「作戦要務令」にある1日24km行軍と当時も全く同じことになります)

中国大返しは1日25km行軍

中国大返しの移動速度を計算してみます。(6月13日は摂津富田~山崎の10kmしか進まないため除外しています)

備中高松城~摂津富田(6月12日着)までの距離は西国街道の計測では約202kmでした。仮に6月5日出発とすると8日間移動となり、1日平均は25.3kmの移動速度になります。

速いイメージがある中国大返しですが全行程では標準的な移動速度なのです。(私が紹介するまでもなくネット上では以前から中国大返しが速くないことは指摘されているのですが)

 

備中高松までの山陽道計測

※このような街道計測を行いました。岡山城から備中高松城までのルートは街道から外れるため現在の道で計測しています。旧街道と現在の道が一致しない区間もあり、全長の距離は計測の度に多少の誤差があります。

※実際の行軍は長い隊列になったと思われ、最後尾の兵は1日遅れの出発と1日遅れの到着になった可能性がありますが煩雑になるのでここでは省いて考えています。

 

秀吉側近の杉若無心は細川家の松井康之宛の書状で「6月6日に秀吉は姫路に着いた」と書いていることから、騎馬移動であれば2日間で100km移動は可能なので5日朝の高松城出発が推測できます。
ただ秀吉は中川清秀宛書状で「今日(5日)は成り行き次第で沼城まで行く」と書いていて、沼城だと姫路までは約70kmあるため1日の移動時間を長くしたのか、または杉若無心がまだ着いていないのに6日に姫路に着いたと誇張して伝えた可能性も考えられます。

『惟任退治記』では秀吉は6月6日に沼城へ入り、翌7日は大雨の中移動して姫路に着いたという有名な話があります。日付が1日ずれていますがこちらも各書状と似たような移動が推測できます。

いずれにしても私が指摘したいのは歩兵を含む全軍の日程であるため秀吉の騎馬移動の速さは重要ではありません。
秀吉は6月8日は姫路で行軍を休止するので、歩兵はここで遅れて合流したように思います。

 

他の秀吉の行軍例として、天正8年6月19日に長宗我部元親へ宛てた手紙(『紀伊風土記』に収録)の中に宇喜多軍を助けるため秀吉が強行軍したような記述があります。

3月25日に長浜を出陣して閏3月2日の三木到着まで推定約160~170kmを7日間移動していて、「人馬の疲れも省みず昼夜の境もなく馳せ上った」と書いていますが計算すると1日約25kmペースです。自分の行軍を誇張するのは秀吉の特徴であり、そもそも標準速度なので速くありません。

 

さらに大軍の行軍例として有名な関ヶ原遅参の徳川秀忠の強行軍も載せておきます。

『朝野旧聞ホウ藁』によると、秀忠は慶長5年9月9日に上田城攻撃を止めて一旦小諸城へ引き返した際、家康からの使者が来て翌9月10日から西上を開始。大津に到着して家康に面会しようとするのは9月25日です。

小諸~大津は街道計測で約350kmです。小諸から東軍の勝利を知ったとされる9月17日の妻籠宿までの140kmは8日間で移動しているため、1日平均は約18kmのスローペースとなっています。速度が遅いのはルートの前半が険しい山道であり悪天候の影響もあったと考えられます。
妻籠宿~大津の205kmは下りと平地移動のため1日25.6kmと速くなっています。

※訂正)『関原始末記』によると秀忠が大津へ来たのは9月20日夜とありました(『当代記』では23日に草津到着とあり史料によって異なりますが)。
9月25日に大津到着というのは私の覚え間違いで、25日は『関原始末記』では到着している秀忠が家康と面会した日のようです。もし9月20日の大津到着であれば妻籠宿~大津までの約210kmを3日間で移動したことになるので秀忠が馬で急行したと思われ、そうなれば全軍の移動日程を調べるのは難しそうです。

 

記録からわかることは、大軍の行軍速度は地形などの悪条件がない場合はだいたい同じということです。

備中高松~山崎までは軍隊としてはもともと8日間の距離であり、しかも秀吉は標準の8日間移動をしているなら光秀にとって想定可能だったことになります。

 

備中高松城から撤退できる状況だった

備中高松から撤退する手際の良さも秀吉黒幕説の理由になっていますが、史料を読むと撤退できる状況が整っていました。

秀吉は4月から備中七城、5月初旬から高松城の水攻めを開始します。

小早川隆景は4月に援軍として到着(4月23日付中川秀政宛秀吉書状)、5月に毛利輝元吉川元春が到着します。
しかし輝元は20kmも後方の猿掛城に留まり、小早川隆景吉川元春足守川の手前で布陣し、交戦することなく対峙が続きました。

毛利側の『萩藩閥閲録』によると、秀吉は安国寺恵瓊を呼び城主清水宗治切腹を要求、恵瓊はその要求を輝元へ伝えますが拒否されたため、密かに高松城に入り清水宗治切腹を伝え、6月4日に切腹が決まったとしています。

甫庵太閤記』では6月3日に清水宗治切腹を申し出る書簡が紹介されています。また清水宗治は息子に「身持ちの事」という6月3日付の遺言書を残しています。
城主の切腹まで決まったので、残るは毛利との領土交渉を残すのみとなっていました。

このように秀吉が素早く撤退できたのは光秀の謀反を知っていたからではなく、戦闘が終結していたからです。

 

交渉内容がわかる一次史料は少ないですが、輝元書状には秀吉が和平を申し出たこと、そして両軍が兵を引いたことを「吉事重畳」と喜んでいるので和睦を望んでいたようです。
秀吉家臣の杉若無心の書状では三か国譲渡に決まったと書かれています。秀吉はどの書状でも毛利から五か国譲渡を伝えてきたと書いていますが、実際には三か国で譲歩したと考えられています。

交渉がいつ始まったのかは不明ですが、備中の戦況は上方にも伝わっていたように思います。

宇喜多を押さえとして撤退可能

高松城から東10kmには宇喜多の本拠地である岡山城(石山城)があるため、秀吉が撤退しても宇喜多軍1万は当然その地に留まります。

仮に毛利軍が追撃しようと山陽道に出てもすぐ岡山城があるため、まず宇喜多との全面戦争が始まってしまい追撃どころではありません。そのため秀吉は強引にでも撤退できる状況でした。この状況は光秀も把握できたはずです。

秀吉は数日で落城すると伝えている

秀吉は5月19日に越中柴田勝家与力、溝江長澄へ「端城の土居を水打越」と水攻めが進んでいること、また落城は「十日五日の内」と伝えています。このような戦況報告が越中にまで届いているということは、上方にも出していたと考えていいでしょう。

堤が完成したのであれば落城は時間の問題であり、輝元が救援を断念して戦いが終わる可能性もこの報告から推測できました。
つまり筆者が言うように5月中旬に光秀が謀反計画を立てたとしても、6月2日には秀吉は戦闘が終わっているかもしれないと予測できたことになります。

光秀は事前に毛利へ伝えるべきだった

光秀は毛利へ事前に伝えていませんでした。信長を討つタイミングが計画で決まっていたのであれば前日にでも毛利へ密使を送ればよいのです。使者が進んでしまえばどこかで漏れたとしても計画は遂行できます。輝元がどこまで行動を起こすかは別として、秀吉を備中で足止めさせるにはこの方法しかありません。

しかし毛利家の史料を見ると事前に光秀からの連絡はなかった様子です。事前工作がない以上突発的な行動と考えるのが自然です。

 

柴田勝家も南下していた

2018年に6月10日付柴田勝家書状が発見されたことで話題になりました。その書状によると勝家は6月6日に本能寺の変の報せを聞いて6月9日に北ノ庄城へ戻り、光秀の居場所を探ったり大坂の丹羽長秀と光秀討伐を考えていたことが判明しました。

6月10日付中川清秀宛秀吉書状にも柴田勝家から丹羽長秀へ書状が届いたことが書かれてあり(勝家が変を聞いて即大坂へ飛脚を送っていたことになる)、丹羽長秀との連携は事実と思われます。

勝家は6月10日頃に大坂へ着いた飛脚が越前に戻れば、光秀が下鳥羽に移動した頃の動きを把握できていたことになります。飛脚が越前に戻るのは山崎の戦いが起きた6月13日頃でしょうか。

そしてすでに秀吉と光秀の決着はついていましたが、勝家は6月18日に長浜付近へ進軍しました(6月18日付 近江坂田郡加田荘 禁制)。18日に長浜へ着いたと考えた場合、逆算すると6月15日頃に北ノ庄城を出陣していることになります。
記録を確認することはできませんでしたが近江へ入った柴田軍の先鋒は柴田勝豊だったそうです(中村不能斎採集文書)。

近江北部には明智勢として長浜城阿閉貞征佐和山城の山崎片家がいましたが、柴田軍の敵ではなく簡単に攻略できたでしょう。

安土城明智秀満に対しては蒲生氏郷が近江へ進軍した織田信雄家臣の小川長保より加勢を受けて日野城を出陣しており(寛永諸家系図伝)、そこへ勝家が南下してくるなら防ぐのは難しくなります。
筆者の言う謀反計画ではどう対応するつもりだったのでしょうか。

柴田勝家も秀吉と同じ速度

以前から存在が確認されている勝家書状でも、勝家は6月6日に越中宮崎城(本能寺から中山道+北陸道を通る街道計測で約379km先)付近にいて変の一報を受け、そこから北ノ庄城までの約207kmを約4日間で引き返しています。

4日間だと1日50km移動(3日間なら1日70km)なので騎馬部隊のみの移動と推測できます。

 

北陸街道の計測
※北陸街道の一部の計測区間になります。北陸街道は何度も折れ曲がる区間が多く、現在の道より移動距離は長くなります。

 

そしておそらく全軍が越中から戻るのを待って勝家は北ノ庄城を出陣、6月18日に近江へ進軍することになります。

秀吉は京都から西国街道計測で228km先の備中高松で本能寺の変を知りました。勝家は379km先の越中宮崎で知ったため、秀吉より約150km遠方にいたことになります。
この約150kmの差というのは、越中へ変の一報を伝えるのが継飛脚(リレー形式)としても1日~2日かかる距離で、それを聞いて撤退する柴田軍が1日25km行軍として約6日かかる距離になります。

従って勝家は秀吉より7~8日ほど遅れて京都に着いたとしても同じ速度で移動している計算になります。しかも近江へ入るには敦賀付近の険しい峠越えがあるので難所の少ない秀吉より少し不利でした。

山崎の戦いは6月13日。勝家は6月18日に長浜付近へ進軍したので(近江に明智勢がいなかった場合)京都には6月21日頃に到着できた計算となり、8日遅れになります。

この計算から勝家も秀吉と同じく最短で撤退を開始、そして大差ない速度で移動していたことがわかります。秀吉が圧倒的に早いと感じるのは勝家より150km近い場所にいたからです。

勝家や家康も1日25km行軍

柴田軍の行軍速度も計算してみます。

越中宮崎を6月7日に出発したとして長浜へ6月18日に到着した場合、越中宮崎~長浜までの街道計測は約295km、それを12日間で移動するので1日平均24.6kmの移動速度となります。

同じ頃、三河では徳川家康が京都へ向かうため6月14日に岡崎を出陣、その日に鳴海へ到着しました(家忠日記)。移動距離は約25kmです。6月17日には酒井忠次隊が鳴海から津嶋まで約28kmを移動しました。

宿場に合わせた距離の増減はあったようですが、歩兵を含む全軍の行軍速度はやはり1日六里の24km前後が基準となっていたことがわかります。

 

雑賀衆も利用しなかった

光秀は紀伊の反信長派に謀反を伝えていませんでした。むしろ6月12日頃に雑賀衆土橋重治の方から光秀へ、「入魂したいので和泉・河内へ出陣する」と伝えてきたほどです(森家文書)。
また本願寺顕如も光秀に協力するため6月11日に下間少進を紀伊から派遣していました(宇野主水日記)。

謀反計画を立てるなら毛利と同じく、光秀は決行日に合わせて紀伊へ密使を送ればいいわけです。
紀伊の反信長勢力がすぐに北上していれば信孝を南から攻撃することができましたし、引き返した秀吉も対応せざるを得なくなるので展開はもう少し違っていたはずですがそこまで考えが及んでいないことがわかります。

50日100日戻って来ない説の根拠

光秀は秀吉・勝家は50日100日は戻ってこないと考えていたと筆者が主張する根拠は、6月9日の細川藤孝へ宛てた光秀書状です。ネット検索で調べることができる有名な書状ですが、その一文です。

「五十日・百日のうちには近国の儀相堅むべく候間、 其れ以後は十五郎与一郎殿など引き渡し申し候て、何事も存ずまじく候。」

そのままの訳ですが、
「50日、100日のうちには近国を固めるので、それ以降は光慶と忠興殿に(政権を)引き渡し、何事も関わりません(私は隠居します)。」

この部分を「50日100日のうちに畿内を固め、それ以降(秀吉と勝家が戻ってくる頃に)忠興殿へ政権を譲ります」と読むのはおかしいでしょう。これでは細川家が秀吉らと戦うことになり細川家にメリットのない提案になってしまいます。

ここは「50日100日のうちには(秀吉ら反対勢力を討って)近国の情勢を安定させるので、それ以降は政権を譲ります」という訳が正しいと考えます。
若い息子らに統治させるなら情勢を安定させておくことは必要ですし、織田一門や織田派勢力は各地に点在しているので光秀の数十日かかるとの見込みは妥当ではないでしょうか。

実際には光秀は謀反後は秀吉と勝家が戻って来ると考えていたはずです。しかし筒井順慶や摂津衆が自分の味方につくだろうという予測だけでは対処できないのも無理はありません。

まとめ

筆者としては光秀は勝算があって決起したという説であるため、予想外に速い秀吉の中国大返しならやむを得ない、不可抗力で失敗したのだと言いたいように感じます。

しかし山崎~備中高松は軍隊としては8日間の距離であり秀吉はその速度で戻りました。本当に綿密な計画を立てたのであれば最短で戻るケースくらい想定しているはずです。

北陸の柴田勝家も最短で南下しており、6月18日には近江を攻撃可能でした。また四国討伐前の織田信孝(兵14,000)は動揺による兵の逃亡がなければすぐに光秀を攻撃するところだったと宣教師は書いています。

謀反直後から織田の武将が一斉に仇討ちに向かう(後継者レースが始まる)ことは容易に想像できることで、毛利や雑賀衆へ事前工作もなく勝算のある計画など立てることはできません。
この謀反によって坂本城で自害した明智一族の人々、織田家臣として忠実に従っていた織田信澄は無駄死にであり不憫です。

 

当初から味方は少なかった

筆者は摂津衆や細川藤孝が味方につかなかったことも秀吉の中国大返しが原因としています。しかし史料を見ると多くの武将が当初から反光秀であり中国大返しは関係ありません。

高山右近

フロイス日本史』によると、高山右近の居城である高槻城内では当初から一致団結して反光秀を決めていました。

光秀は高槻城へ使者を送りますが城を奪わないことを伝え人質を要求しませんでした。高山右近の妻や家臣は、光秀の使者に味方になるような嘘を伝えて帰しています。

右近は光秀の与力(2年前に佐久間信盛が追放されたことで光秀の組下となった)であって光秀の家臣ではないので、謀反人に協力する理由がありません。

しかも右近は天正6年の荒木村重謀反の際にも村重の組下でしたが、中川清秀とともに信長に帰参しています。この例がありながら史実の光秀は自分の味方につくと決めつけているのです。

フロイスは兵士のいない摂津の諸城を押さえなかったことが光秀の滅亡の発端であると書いています。

中川清秀

備中の秀吉が中川清秀へ、信長は無事脱出したと嘘を伝えた6月5日の書状(梅林寺文書)は有名ですが、「御返報」とあるので中川清秀から届いた書簡に返信を書いています。(中川清秀は備中へ行軍中なので秀吉より先に変を知ることになります)

光秀の謀反を知った中川清秀はすぐに秀吉へ連絡していることから、当初から秀吉方でした。

池田恒興

兵庫城主(?)の池田恒興の動向は一次史料がないのでわかりませんが、『武功夜話』によると中国大返しで戻る秀吉と尼崎城で対面したそうです。

池田恒興の母養徳院は信長の乳母ですから、織田家と関わりが深い武将です。

細川藤孝

後宮津にいる細川藤孝は多数の文献から変の一報を受けてすぐに反光秀方となりました。中国大返しを見て秀吉についたわけではありません。

細川家であれば味方についてもおかしくない間柄なので光秀には誤算となりました。ただ石高の少ない丹後宮津ですから兵を出しても2,000程度の戦力と思われます。

筒井順慶

『多聞院日記』によると本能寺の変の時点で筒井順慶の兵数は6,000~7,000だったそうなので(6月15日条「順慶…昨今立人数六七千可在之ト云」)、秀吉の接近を知って光秀から離反したのは光秀にとってダメージは大きかったと思います。

ただ筒井順慶は結局秀吉にも兵を送らなかったので(後に秀吉に曲事とされた)立場は微妙と言えます。秀吉も筒井順慶の兵力を生かすことはできず、どちらの戦力にもなりませんでした。

丹羽長秀

先ほど紹介した6月10日付の中川清秀宛秀吉書状には、「尚以柴修(柴田勝家越中表相随付候て、急而可馳上旨、五郎左衛門(丹羽長秀)書状披見、指越候」とあり、大坂の丹羽長秀柴田勝家から急ぎ向かうと伝えられていました。

丹羽長秀はもちろん反光秀の立場ですが、勝家から連絡があったことで摂津衆の連携は強化されたと想像できます。

まとめ

このように摂津衆は当初から反光秀だったので中国大返しを見て秀吉についたのではなく、謀反失敗の理由になりません。光秀が味方になるだろうと考え、摂津衆から人質を捕らなかったために敵となったのです。

結果的に山崎の戦い明智軍は摂津衆の攻撃を受けて総崩れになりました。

 

山崎の戦いで光秀は兵法を無視した

山崎の戦いでは光秀は平地決戦を挑み、勝龍寺城近くにある恵解山古墳(または境野1号墳)に本陣を構えました。

筆者は狭い場所の出口を叩く作戦だったとしていますが、『孫子』の兵法では狭い「隘路」と「高地」は先に占拠して敵を迎え撃てとあり、もし敵が隘路を固めた場合は戦ってはいけないとしています。
呉子』でも小勢で戦う場合は平地を避けて隘路で迎え撃てと説いています。

しかし光秀は6月10日から下鳥羽や山崎にいながら西方面から来る秀吉軍を山崎村と天王山で迎え撃つ作戦を選択せず、東側の平地に布陣してしまいます。

そのため6月12日、秀吉軍の高山右近中川清秀に山崎村を占拠されました(秀吉書状)。山崎村は東西に門がある街道集落で、フロイスは「大きく堅固な村落」と表現しています。また東門の東側は淀川まで湿地帯を含めて広い土地があり、川沿いを池田恒興が進軍しました。

6月13日、明智軍の先手が山崎村に接近して東門を叩き、高山右近がそれに応じて門を開けたことで戦闘は開始されます(フロイス日本史)。敵地へ侵攻していたはずの秀吉軍ですが、隘路で迎え撃つという理想的な形で戦うことができました。

高山右近は劣勢になっても集落に引いて城門のように戦うことができるので有利でした。また中川清秀は山手沿いから進軍して攻撃しており、丘を背に戦う部隊は兵法では有利となります。
結果的に明智軍の先鋒は池田恒興中川清秀に左右から挟撃されて全軍総崩れとなります。光秀自身は勝龍寺城に近い場所から動かず、一体何を考えていたのでしょうか。

先に戦場に着きながら平地に布陣し、兵法でしてはいけないとされる地形的に圧倒的不利な位置へ進んで戦闘を始めており、兵法など考えていない気がします。

 

徳川軍が安土城を放火?

筆者は『多聞院日記』の記述をもとに、徳川の別働隊が6月12日に安土へ明智秀満の援軍として入り、秀満が城を出たあと6月15日に放火したとしています。
この別働隊が三河から安土へ向かうには街道沿いにある織田の城をいくつも通るため、織田方を装って通行する必要があります。

安土周辺では日野城蒲生氏郷織田信雄家臣 小川長保の加勢を受けて6月8日に出陣(『寛永諸家系図伝』)、安土城まで進軍した記録はないようですが氏郷は9日に八日市の常願寺、10日に安土山の西にある長命寺へ禁制を出しています(『北村又三郎氏文書』)。
織田軍の進軍を予測して安土周辺の寺社が保護を求めていることから状況は緊迫していたことがわかります。この状況で徳川軍が現れて安土城へ入城したと言うなら家康の寝返りが発覚すると思われます。

6月14日、家康は京都へ向かうため三河を出陣、尾張へ入り伊勢の織田家と連絡を行います(『家忠日記』)。
これを筆者は家康は織田方を装って光秀救援に向かっていると説明していますが、12日に別働隊が安土へ入ったならすでにその情報は広まり徳川は明智方となっているはずです。説明がよくわかりません。

 

炎上日は6月15日?

通説では安土城炎上は6月15日となっていますが、この炎上日について考えてみます。

吉田兼見の『兼見卿記』では6月15日条の先頭で「安土放火云々」と書いてありますが、この日の日記には続きがあり、息子の兼治が京都から約25km先の草津へ行き、夕方(申の下刻)に帰って来ています。

往復50kmは徒歩で10時間、馬の常歩(なみあし)で8時間程度かかるので、夕方の帰宅であれば午前中に出発したと考えられます。安土城炎上を書いているのは兼治が出発する前ですから、時間の経過から炎上は午前中(朝?)の情報と思われます。
となれば京都~安土は約50kmの距離があるため、前日14日の出来事が翌日の午前中に届いたように思います。

甫庵太閤記』によると6月14日の未明に炎上しているので、翌15日朝に京へ届いたなら伝わるのが少し遅い気がします。しかし明智秀満は14日未明に安土城を出て街道を南下、(おそらく昼頃に)大津で秀吉軍の堀秀政と交戦します。

14日はこのような状況ですから安土から京へ向かう人々の往来もままならず、情報が伝わるのが遅くなったと推測することができます。
というより『甫庵太閤記』の記述を信用するのであれば、そのまま炎上は14日でよいわけですが…

『多聞院日記』を読んでも何度も行われた信長の上洛(午後2時頃の上洛が多い)は40km先の奈良に翌日になってから伝わっています。急報ではない自然に広がる情報は意外と遅いので14日の炎上ではないかと考えます。

安土放火犯の史料

2015年に出版された「明智一族 三宅家の史料」には明智秀満の子孫による覚書(江戸中期成立)があり、山崎の戦いで光秀が敗れた報せが届くと安土の兵は逃亡して700ほどになり、秀満は安土城に火を懸けて坂本城へ移ったと書いてあります。

他には『氏郷記』も秀満が火を懸けたとしています。(『氏郷記』は寛永11年(1634年)成立と言われ、まだ蒲生家の言い伝えが残っていると思われる時代の伝記になります)

どちらも江戸時代の史料ですが、明智秀満蒲生氏郷という現場にいた人物の子孫や家臣が書いていることから明智秀満の可能性は十分あります。もとより城を退去する際の自焼に違和感はありません。

宣教師による織田信雄説も可能性はゼロではありませんが、奪還した城を燃やす理由がわからないのでこちらは納得しにくいですね。

またこの明智秀満の子孫による覚書は面白い記述があります。秀満が本能寺を急襲した際、「信忠様が謀反により光秀が御味方に参った」と門番に嘘を伝えて門を開けさせたと書かれています。
三河物語』には謀反が起きた時、信長は「信忠が別心か」と発言したとありますが、このことを書いたのかもしれません。

 

 …すっかり本題から逸れてしまいましたが、新しい史料が出てくると本当に面白いです。

明智一族 三宅家の史料」には光秀書状や熊本三宅家の史料・系図が収められていて非常に価値の高い史料だと思います。(購入するには25,000円と高価ですが、いくつかの大学図書館に所蔵されています)
覚書の内容も多少は秀満寄りの記述も感じましたが軍記物のような創作感はなく、本能寺の変研究史料としても活用できるように思います。

以上、新たに気づいた筆者の説への疑問はここまでとしておきます。

次の段落は以前に書いた「431年目の真実」を読んでの指摘になりますが、文章を整理して記事を残しておきます。

本書の誤り

信長は6月2日に来いと命じてない

史料によると堺にいる家康は6月2日の早朝に出発しています。堺から京都までは約60km、当時の人々は1日40kmくらいで計算するため1日半の距離です。それを集団移動で1日60kmというのは強行軍で、仮に通しで歩いて到着しても夜でしょう。

家康一行には長谷川秀一ら織田家臣もいるので信長から「6月2日に来い」と命じられて2日の夜に着くように出発することは当然ありません。

筆者はこの指摘に対して夕方には到着できると回答しましたが、信長を一日中待たせるなどあり得ません。この信長を待たせることについては回答がありませんでした。

「431年目の真実」には6月2日昼頃の家康討ちを想定して書かれていることから、堺から京都まで2~3時間程度で着くと思って説を立てていることがわかります。

 

今井宗久の記録

6月2日が間に合わないなら6月3日に呼び出したと考えることもできます。

しかし、今井宗久は5月29日の日記で家康を6月3日の茶会に誘ったことを書いています。

「徳川殿堺ヘ御下向ニ付、爲御見廻參上、御服等玉ハリ候、来月三日、於私宅御茶差上ベクノ由申置候也」(今井宗久茶湯日記書抜 5月29日条)

家康に6月3日の上洛命令が出ていたら、このような約束が書かれることはありません。

 

家康は西国出陣予定だった

家忠日記』の6月3日(本能寺の変が伝わる直前)には、家康が西国へ出陣があると伝わっています。

「三日、京都酒左衛門尉所より家康御下候者、西国へ御陣可有之由申来候、さし物諸国大なるはたやミ候て、しない成候間、其分申来候」(家忠日記

この記録には家康が帰国後に西国へ出陣すること、諸国(織田の各国部隊)は大きな旗指物は使っておらず「しない」になっているとの注意が、京都にいる酒井忠次から三河松平家忠へ届いています 。

おそらく5月末、家康一行が京都から堺へ向かう前に出された命令かと推測します 。信長は家康にも毛利攻めを命じていたことがわかります。

(※「しない」は小型で柔らかくしなりやすい旗を意味するのだそうです。:出典「松平家忠日記」盛本昌広 (著) 角川選書

 

信長はなぜ少人数で本能寺にいたか

信長公記』や『言経卿記』には信長の上洛が記録されていて、少人数で上洛したことは何度も確認できます。
例えば「馬廻りのみ」、「少人数」、時には「小姓衆五、六名」で上洛とあり(ホントかなと思うくらい少ない)、このような記述は度々書かれています。

そのため少人数で上洛することにミステリーはありません。

 

信忠討ちが書かれていないので織田家を倒せない

光秀が織田家を倒すには嫡男信忠も討つ必要がありますが、信忠討ちについて書かれていないのでこれでは謀反計画が成り立ちません。

以前の筆者の説でも信忠のことは家康にまかせると書いてあるだけで、最近の著書『光秀からの遺言』ではなにも書かれていません。

家康は堺で信忠を討って、どのように40名の一行は徒歩で脱出するのでしょうか。家康の謀反が周囲に伝わると伊賀越えスタート地点の山口城は封鎖され、伊賀越えができなくなります。

確かにこの信忠暗殺を説明するとトンデモ説になりそうな気はしますが、このまま触れないのでしょうか。

 

秀吉黒幕説は難しい

秀吉も事前に光秀の謀反を知るため黒幕のように書かれています。

しかし秀吉は本能寺の変の際、長浜城に妻のねねを残しており明智方に人質として捕られてしまうところでした。幸いねねは地侍の広瀬兵庫助に匿われて助かり、秀吉は広瀬兵庫助に感謝状を出しています。この出来事から秀吉黒幕説も考えにくいのです。

(この感謝状は以前から『甲津原文書』で確認されていたのですが、2015年に原本が発見されたことで事実として認定されました。)

 

また秀吉はいち早く情報をキャッチしたとよく言われますが、京都から約160km離れている三河深溝城には6月3日酉刻(18時頃)に本能寺の変が伝わっています。

200km離れた備中高松に6月3日夜半(秀吉は書状により「四日」とも書いている)に届いたのであれば同じくらいの伝達速度なので、秀吉だけが早く知ったということはなく織田・徳川領内には素早く広がっていました。

総括

謀反の動機は議論しても結論は出ませんが、個人的にはフロイスが書いた足蹴と、二次史料ですが『武家事紀』にある斎藤利三引き抜きの件で信長が光秀を殴る話などから怨恨説と考えます。お決まりの答えですが千載一遇のチャンスで信長を討った、ということになります。

信長を討った後、光秀は宣教師に「このような成果をおさめたことを喜べ」と発言しています。信長を討てば皆が喜んでくれると思っていたのでしょうか…

 

筆者は信長の唐入り構想に注目し、それが謀反の動機につながったとしています。信長の唐入りについてはフロイスが実際に書いており、個人的には史料に基づいた仮説には興味がありますしこの着眼点は面白いと感じます。

ただ信長が家康を討つ計画やそれを利用した光秀の謀反計画は、それに当てはまる史料のみで説を構成しており不公平に感じます。私は筆者が伏せている史料をこれからもAmazonレビューなどで紹介していくつもりです。

特に柴田勝家関連の記録は一切触れていません。しかしこれから本能寺の変を真摯に勉強しようとする人たちが筆者の書籍やそれを基にした漫画を読んでも真実を知ることはできないことになり、このような姿勢はよろしくないと思います。
研究者であれば関連史料は公平に紹介すべきで、自分の考えに合わない史料があっても自説が正しいのであれば堂々と紹介して反論すればいいわけです。

今後も史料が発見されることで本能寺の変の解明は進んでいくと思います。次の新たな発見に期待したいと思います。

 

P.S.)光秀の年齢捜査についてはこちらでまとめています。

honnouji201708.hatenablog.com