【山崎の戦い】は史料でこう書かれていた 合戦経過と予想布陣図も

2020.4.17更新

山崎の戦い布陣図

山崎の戦い布陣図

天正10年6月13日に行われた、山崎の戦いについて考えてみようと思います。

上記の布陣図はこれから紹介している史料をもとに作成した、推定の布陣図になります。

秀吉方は史料から推測しやすいのですが、斎藤利三や津田信春など位置関係が不明な部隊も多いです。光秀の本陣は、近年有力視されている恵解山古墳としています。

それでは合戦内容を確認できる史料をご紹介していきます。

山崎の戦いが書かれた史料は様々ありますが、ここでは年代の古い「天正10年10月18日付秀吉書状」、『フロイス日本史』、『甫庵太閤記』、『川角太閤記』を比較してみます。

 

秀吉書状による記述

天正10年10月18日に秀吉が織田信孝に宛てた書簡(宛名は斎藤玄蕃・岡本太郎左衛門)で書かれた、山崎の戦い部分を抜粋してみます。

「其の十三日の晩に、山崎に陣取り申し候。

高山右近中川清秀、平太郎(堀秀政?)の手へ、明智め段々に人数を立て、切りかかり候ところを、道筋は高山右近中川清秀堀秀政切り崩し候。南の手は池田元助、我ら者には加藤光泰・木村隼人中村一氏切り崩し候。

山の手は羽柴秀長黒田官兵衛・神子田正治前野長康・木下勘解由、其の外の人数を以て切り崩し候て、即ち、勝竜寺を取巻き候へば、明智め夜落ちに逃げ落ち候ところを、或いは川へ追い入れ候儀は、我ら覚悟にて仕り候か。

それにつき、明智め山科の藪の中に逃げ入り、百姓に首を拾われ候事。」

 

秀吉は6月13日の昼に淀川を越えた織田信孝と対面し、誓紙を提出しながら全く兵を出さない筒井順慶へ催促の書簡を送るなどしています。

そしてこの記述にあるように13日の晩に山崎へ陣取りしました。そのまま読むと時系列がおかしいですが、秀吉自身は13日の晩に到着して合戦はその日の昼に行われています。

秀吉は筒井順慶に「信孝様は明日(14日)西岡(大山崎)へ陣を移す」(藤堂家文書)と伝えているので、14日以降の決戦を想定していたように思います。しかし13日に合戦が始まったため、その日に山崎へ移動したようです。

山崎の戦いの布陣を考える場合、この記述にある「山の手」がどこを指しているかが難しいです。天王山の頂上辺りまで登ったという意味なのか、または中腹の山沿いを通ったという意味なのかがはっきりしません。

この内容では位置関係が把握しにくいですが、秀吉方は山の手・道筋(西国街道)・南の手の三方向から攻撃したことが確認できます。

秀吉が書かせた『惟任退治記』でも、戦闘経過はこの書状とほぼ同じ記述となっています。

 

フロイス日本史』による記述

フロイス日本史』ではもう少し詳しく合戦内容が書かれています。

内容は信者である高山右近から話を聞いて書かれたものと思われ、高山右近の活躍を描いた内容となっています。

実際の戦闘箇所はかなりの長文なので、要約させていただきます。(出典:『完訳フロイス日本史3 織田信長篇III』(中公文庫)p.171~p.175)

中川清秀が山の上を進み、池田恒興は淀川に沿って進み、高山右近はその中間の山崎村へ入った。(山崎村は信孝と光秀から禁制をもらっていましたが、実際に戦闘が起きると効力はないようです)

高山右近明智軍が接近していることに気づき、3里後方にいる秀吉へ応援を求めた。(この時点で円明寺川(小泉川)を越えて明智軍から接近している)

しかし明智軍が山崎の門を叩いたため、兵数1,000の高山右近が門を開けて勇敢に攻撃、身分の高い明智軍200名の首を討ち取る。

そして両脇から池田恒興中川清秀が攻撃、これにより明智軍は退却を開始。明智軍は秀吉と織田信孝の2万の大軍が接近していることも勇気を挫いていた。しかし秀吉らは長距離移動の疲労のため高山右近のもとへは到着できなかった。この秀吉軍の勝利は正午に行われた。

午後二時、敗れた明智の兵が京都の街を通過、坂本城を目指して逃亡するのを宣教師が目撃。

同日午後、光秀は勝龍寺城へ入り籠城する。

このような流れになっています。

秀吉の書簡より具体的に書かれていて大変興味深いです。明智軍の先鋒はかなり南下して東黒門まで進んでいたことが確認できます。

秀吉書簡と進軍した部隊は少し違っていますが、山の手と川方面から秀吉軍が攻撃したことは一致しています。

戦闘の記述は高山右近が主役となっていますが、山の手では黒田官兵衛羽柴秀長らが戦っていた可能性はありそうです。

 

他の史料では数十年後に書かれた二次史料の『甫庵太閤記』、『川角太閤記』があります。

甫庵太閤記』による記述

甫庵太閤記』は小瀬甫庵という人物が書いた文献になります。内容をまとめてみます。

明智軍の松田隊が天王山の山頂から秀吉軍を鉄砲攻撃するために山に登り、それを防ぐため堀尾吉晴堀秀政が戦う様子が描かれています。小瀬甫庵堀尾吉晴に仕えたことがあったようで、堀尾吉晴の活躍を取り上げているように思います。

堀秀政は中腹の宝積寺で松田隊と戦ったと書いてあり、宝積寺は山崎村の中心付近なのでかなり秀吉軍の深い位置で戦ったことになります。松田隊はこの戦いで壊滅してしまいます。

山崎村では高山右近が自分だけ手柄を立てようと西側の門を閉じて明智軍と戦います。

そして中川清秀と池田父子が左右から進軍して明智軍を包囲。明智軍の兵に動揺が起こり、敗北を悟った伊勢貞興・諏訪盛直・御牧景重は突撃して立派な最期を遂げます。

この先鋒隊同士の敗北が御坊塚にいた光秀に伝わると、光秀は鬨の声をあげて攻撃を始めようとします。しかし引き返して来た家臣に、味方の大半はすでに逃げ散っていると伝えられ、勝竜寺城へ退却することになります。

このような合戦経過となっています。

この『甫庵太閤記』では天王山の戦いが描かれていて、また明智軍の先鋒隊の武将名が書かれていることも注目です。

 

『川角太閤記』による記述

『川角太閤記』は川角三郎右衛門によって書かれた太閤記となっています。

この書物では合戦の勝ち負けは天王山を取るかどうか次第とあり、6月12日から秀吉軍の中村一氏の鉄砲隊の動きについて詳細に描かれています。

6月13日、明智軍が山崎の東町の先まで軍勢を出して互いに布陣します。明智軍の鉄砲隊が天王山を登ったところ中村一氏と交戦になり、中村一氏は勝利します。

それと同時に秀吉軍の先手(高山右近中川清秀)が攻撃、明智軍の備えは突き崩されて1町ほど後退、さらに秀吉も馬印をかかげて後詰として攻撃、勝龍寺城付近まで押し込んだところで明智軍は総崩れとなります。

秀吉軍は勝利して桂川まで追撃したと書かれています。

この書物では全体的に6月12日の中村一氏の活躍に重点が置かれています。やはり明智軍は山崎村近くまで南下していたようですが、それ以外の位置関係はあまり把握できない記述でした。

一次史料ではまだ到着していない秀吉も戦っていて、軍記物を読んでいるような印象を受けました。

 

天王山の戦いはあった?

甫庵太閤記』や『川角太閤記』などの二次史料では天王山の戦いがかなり詳細に書かれていることが特徴的です。

天王山での戦いの可能性を推測すると、

(一)、羽柴秀長黒田官兵衛は山沿いの中腹を進んだ(誰も天王山に登っていない)
(二)、羽柴秀長黒田官兵衛は天王山に登って戦った
(三)、堀秀政中村一氏などが天王山に登って戦った
(四)、羽柴秀長黒田官兵衛は山沿いの中腹を進んだ+堀秀政中村一氏などが天王山に登って戦った

というパターンに分類できそうです。

一次史料をもとに考えれば天王山での戦いは行われていないことになります。しかしフロイス高山右近の戦いをメインに書いています。秀吉も書状ではおおまかな合戦内容を書いているだけなので、小部隊同士で行われた天王山の戦いまでは書かなかった可能性も考えられます。

小瀬甫庵の文献は特定の人物を活躍させる傾向が指摘されていますが、一応情報を集めて書いたと思われるので、ここでは(四)の天王山では小部隊同士の戦いがあったと考えたいと思います。
ただ松田隊が宝積寺付近まで入ったとは思えないので、東黒門の西側付近の山で戦ったのかもしれません。推測なので位置関係は全くわかりませんが。

 

光秀が山崎を占拠しなかった謎を考えてみる

山崎の戦いでは光秀は平地決戦を選択していて、この戦い方には大いに疑問があります。(こちらのページでも以前指摘しました→本能寺の変 明智憲三郎氏の説についての批判

 
山崎の戦いの前、光秀は洞ヶ峠で筒井順慶の出陣を待ちます。6月11日には諦めて下鳥羽の陣へ戻り、淀古城の普請を始めます(『兼見卿記』)。

山崎の戦いで使用しなかった淀古城の普請を始めたということは、京街道を北上する可能性のある織田信孝筒井順慶への対策と思われます。巨椋池東側にある槙島城の井戸良弘は明智方のようですが中立的な立場でした。

光秀はこの時点で下鳥羽・山崎エリアで迎え撃つ準備を始めていたことになります。

『老人雑話』によると(おそらく6月11日)施薬院全宗が下鳥羽の陣へやって来て秀吉が接近していることを伝えます。それを聞いた光秀は慌ててその夜に桂川を渡ったと書いてあります。

ただ『フロイス日本史』では光秀が安土城にいた6月8日に京都から飛脚が来て秀吉の進軍を把握したようなことを書いていて、どちらが正しいのかわかりません。8日に安土まで伝わったとすれば、おそらく秀吉が6月5日に中川清秀へ戻ることを伝えた情報などが、8日には京都に伝わっていたことになりそうです。

仮に光秀は6月11日の夜に桂川を越えたとして、翌12日に秀吉軍の先鋒が山崎へ進軍するまでの間、軍議を開き作戦を立てていたはずです。
この時点で近くにある山崎村と天王山を確保せず、なぜか北に進み勝龍寺城の近くへ本陣を置いて南向きに備えました。地形を利用せず兵力差が出る平地決戦をわざわざ選んだ理由が謎なのです。


孫子』の兵法では入り口のくびれた「隘路」と「高地」は先に占拠して敵を迎え撃てとあり、先に敵に占拠された場合は戦ってはいけないと書かれています。
山崎は中央付近が隘路となる狭い場所で、フロイスが「大きく堅固な村落」と表現したように門を備えた戦略拠点にもなりました。また高地である天王山も守備に適しています。

光秀はこの一帯を占拠して西から進軍する秀吉軍を迎え撃つ作戦を用いるべきでしたが、なぜか占拠せず東側の平地に布陣してしまいます。

そのため6月12日、秀吉軍の高山右近(兵数は1,000程度)と中川清秀が進軍して山崎村を占拠します(秀吉書状)。おそらく池田恒興も付近まで進んでいたと思われ、兵数は5,000程度でしょうか。

この12日は『兼見卿記』によると山崎から軍勢が出て勝龍寺城の西を放火したとあり、小競り合いが始まっていたようです。もしすでに明智軍が広く布陣していたなら勝龍寺城の西まで秀吉軍は進軍できないはずなので、当初光秀は勝龍寺城に兵を引いていたという可能性も考えられます。実際は何が起きていたかよくわかりません。


翌6月13日、雨の中、明智軍の先鋒が山崎村の東黒門へ接近します。それを見た高山右近明智軍の接近を3里以上後方にいた秀吉に伝えようとします。

しかし明智軍が門を叩いたため高山右近は待つべきではないと判断、門を開けて突撃し、合戦が開始されます。『フロイス日本史』によるとこの戦いで高山隊の戦死者は1名、明智軍は身分の高い武将200名が討ち取られたとのことです。

この戦死者数は誇張されているように思いますが集落の中から一斉射撃をして突撃したならあり得るかもしれません。『甫庵太閤記』によると高山隊と交戦した明智軍は伊勢貞興・諏訪盛直・御牧景重とのことです。

いずれにしても敵地へ侵攻していたはずの秀吉軍が隘路で迎え撃つという理想的な形で戦闘を行うことになりました。

一般的には山崎の戦いは光秀は出口を叩く作戦だったとよく言われます。確かに狭い出口から進軍する敵を包囲攻撃するのであれば効果的だと思いますが、東黒門の東側は川岸まで土地が広くなっているので包囲は難しく、実際に川沿いからは池田恒興が進軍していました。

初戦の高山右近の戦闘が終わると、川沿いから池田恒興、山手から中川清秀が到着します(『フロイス日本史』)。

中川清秀は山手から下って攻撃することになりますが、兵法でも丘を背にした攻撃は有利とされています(突撃速度が増すため)。逆にこのような丘を背にした敵とは戦うべきではないとされています。

そして伊勢貞興らの部隊はこの池田恒興中川清秀に左右から攻撃されて壊滅。この敗北で全軍が動揺して総崩れとなり、光秀ら一部の兵は勝龍寺城へ、また坂本城を目指して退却する兵もいたそうです(『甫庵太閤記』)。

結果的に明智軍は兵法で不利とされる地点に進んで戦闘を行い、敗北しています。光秀自身は城から近い場所に陣取り、一体何を考えていたのでしょうか。

退却しやすい位置にいたことから勝機は薄いと考えていたように思います。しかし家臣たちは好戦的で、前線へ進んでしまいました。
戦い方としては中途半端で、戦うなら先に山崎と天王山を確保するか、籠城するなら防御力のある坂本城まで退くべきだったように思います。

 

光秀最期の地

山崎での戦いが終わり、その後明智軍が敗走して勝竜寺城に籠もる経過はどの史料も同じような展開で書かれています。

その後光秀は夜になって勝龍寺城を脱出、坂本城を目指しますがその道中で土民に襲われることになります。最期の場所に関しては史料によって地名が少し異なっています。

甫庵太閤記』では小栗栖で百姓に狙われ自害したとなっていて、一次史料の『兼見卿記』『言経卿記』ではいずれも醍醐辺りと書かれています。

信憑性は公家衆の書物の方が高いですがいずれにしても伝聞を書いたものになります。地図で確認しても「醍醐」と「小栗栖」は近い場所なので、だいたいこの辺りが最期だったのだろうと思われます。

太田牛一の『太田牛一旧記』によると、光秀は小栗栖という小里で藪の中から槍を突かれて負傷、二、三町(約300m)ほど進んだところで光秀は馬を降り、家臣に首を討たせたと書かれています。有名な明智藪の碑は小栗栖小坂町にあります。

明智軍記』の最期も太田牛一の記述を真似たような内容となっていて、これをきっかけに小栗栖が最期の地として認知されたように思います。

 

当時は巨大な巨椋池が醍醐の辺りまで広がっていたようなので光秀や明智軍の兵が通る道は限られていたようです。落ち武者狩りに合う確率は非常に高かったでしょうね。
なんとか坂本城にたどり着いたとしても結局は秀吉軍に攻撃されるので、光秀の運命は変わらなかったと思いますが。

この一戦は秀吉も敗北すればそこで終わってしまうので、そう考えると山崎の戦いも天下分け目の戦いと言えそうです。

以上、山崎の戦いを研究してみました。