二条新御所(二条御新造)の位置について



天正10年6月2日早朝、明智光秀は本能寺を襲撃して信長を討ち、その後嫡男の信忠が宿泊していた妙覚寺へ向かいます。

信忠は一旦妙覚寺を出て本能寺へ向かいますが、すでに手遅れと知り、村井貞勝の提案により防御力の高い二条新御所へ移ります。

 

この信忠が移った二条新御所の位置は、誤って覚えてしまう人が多いようです。私もネット情報から二条新御所の詳細な位置を知ることができました。

どうしてややこしいかというと、二条の名前がつくお城は現在の二条城以外にも、二条と名のつく複数の城跡があるためです。

 

地図で位置関係を表すとこのようになります。(クリックで拡大できます)

※2018年1月の発掘調査により、当時の本能寺は東西120m四方の規模と判明しました。そのため地図でもその大きさで表示しています。

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二条御所・二条新御所の位置

 

二条古城

もとは将軍足利義輝二条御所。永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好義継・松永久通らに討たれ、二条御所は焼失。

永禄12年(1569年)の本圀寺の変で将軍足利義昭三好三人衆に襲われた後、信長が義昭のために防御施設として二条御所を築城。

二条古城は発掘調査により3重の堀があったことが判明しています。当時は現在の御所の敷地まで広がっていたそうです。
二条古城の石垣を作る際、信長は寺院の石仏や供養塔を壊して用いたそうで、フロイスは住民に「驚嘆と恐怖を生ぜしめた」と書いています。

二条新御所(二条御新造)

天正4年(1576年)、妙覚寺に宿泊した信長が二条摂関家の邸宅を気に入り改修。その後2年間、信長の京での宿所となる。

天正7年(1579年)、信長はこの屋敷を誠仁親王へ献上。
天正10年(1582年)、本能寺の変の際、妙覚寺にいた織田信忠が二条御新造に籠城して明智軍が襲撃する。

信長公記』では信長が改修する際は「空き地」だったと書かれていますが、『言経卿記』では二条晴良が新邸へ移ったとあります。実際は追い出されたのでしょうね…

南蛮寺

天正4年(1576年)、宣教師オルガンティーノの要望を受け、信長が高山右近に造らせた建物。

本能寺の変の際、司祭フランシスコ・カリオンはこの南蛮寺から目撃し、その生々しい記録はフロイス(当時は九州にいた)により『日本年報追信』『日本史』にまとめられました。

妙顕寺城(二条第)

天正11年(1583年)、秀吉が京都の政庁として建てた城。聚楽第の完成まで拠点としていた。

二条城

慶長11年(1606年)に、徳川家康が宿泊施設として建てた城。近代では皇室の離宮として使用される。

 

このような位置関係となっていて、信忠が移った二条新御所は妙覚寺の東隣りにありました。 

妙覚寺は現在では御所より北の方へ移転していますが、当時の位置には地名として残されています。

本能寺も現在は鴨川沿いの京都市役所前に移転しています。本能寺の変の後、秀吉により移されました。

 

光秀が本能寺を襲撃した際、妙覚寺にいた信忠は明智軍が来るまで時間がありました。

有楽斎・前田玄以水野忠重らは実際に脱出しており、信忠も安土へ逃げていたら織田家は存続してまた違う歴史になっていたんだろうと思うと面白いものです。

一方光秀はそう離れていない妙覚寺を同時に攻撃しておらず、謀反の計画性について疑問視されています。

 

以前書店で立ち読みした『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』副島 隆彦(著)では、信忠は妙覚寺から江戸時代に建てられた現在の二条城へ逃げ込んだと図で掲載されていました。
これから本能寺の変を勉強する人が読んだら間違って覚えてしまいますね。

というわけで二条の名がつく城は複数あってややこしいですが、信忠が立て籠もった二条新御所は、"(戦国時代当時の)妙覚寺の東隣り"となります。