明智光秀の享年(年齢)が書かれた史料を整理してみた

2019.9.26更新

謎が多い明智光秀の年齢。
野口隆氏による光秀の享年に関する論文がわかりやすかったので、それをもとに光秀の享年が書かれた史料を古い順に並べてみました。

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群書類従 明智系図』(1631年)享年55歳
光秀の子という玄琳が作成した明智家の系図。ただこの系図は間違いが多いとのこと。

織田信長譜』(1641年)享年57歳 
林鵞峰編(林羅山の子)。鎌倉室町両幕府の各将軍および信長・秀吉の伝を編纂した『将軍家譜』の一編。本能寺の変の翌年生まれの林羅山は享年57歳と認識している。この軍記物ではお馴染みの「敵は本能寺にあり」が登場。

『当代記』(寛永年間 ~1645年)享年67歳 
松平忠明編といわれる。当時の伝聞を集めたり、小瀬甫庵の『信長記』をもとにした記述も多く見られる書物。松平忠明本能寺の変翌年生まれ。享年67歳なら光秀は1516年生まれで子年となる。

『陰徳記』(~1660年)享年55歳 
香川正矩編。中国地方の動向を叙述した戦国軍記。ここでは後世に影響を及ぼす「鼠が馬(信長の午年)を食べる夢占い」の逸話が登場。享年55歳だと光秀は1528年生まれで子年となる。

『増補信長記』(1662年)享年57歳 
林鵞峰に師事した松平忠房が編者。『織田信長譜』を採用している。

『将軍記』(1664年)享年57歳 
浅井了意編。漢文体の『将軍家譜』を和文にあらためた書物のため57歳を記述。

家忠日記増補追加』(1665年)享年55歳 
家忠日記』の作者松平家忠の孫、松平忠冬が編者。松平清康から徳川家康までの徳川氏創業記。小栗栖で野武士により討たれ、「時に光秀五十五歳」と記述。

『続本朝通鑑』(1670年)享年57歳 
織田信長譜』を書いた林鵞峰編。幕府の命を受けて編纂された書物。

『和漢名数』(1678年)享年63歳 
貝原益軒編。数字に関する字句を集めた書。歴史上の人物の没年を書いた項目で異質な年齢を挙げている。

黒田家譜』(1678年頃)享年57歳 
貝原益軒編。黒田家代々の伝記。同じ作者ですがこちらは57歳。

『本朝武家高名記』(1697年頃)享年57歳 
樋口好運編。当時主流の57歳を採用している。

『総見記(織田軍記)』(1702年)享年55歳または63歳 
遠山信春編。信長の伝記。『和漢名数』の63歳も紹介しているが、なぜか『増補信長記』の57歳は紹介していない。

明智軍記』(1688年~1704年)享年55歳 
著者不明。おなじみの光秀を主人公とする軍記物。鼠と馬の夢占いを採用して55歳と記述、ここで光秀辞世の句が登場する。

『綿考輯録』(1778年)享年57歳 
肥後熊本藩細川氏の家史。『明智軍記』からの転載が多いが年齢に関しては採用していない。

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以降幕末まで光秀の享年を書いた多くの文献は、「夢占い+55歳」または「57歳」のいずれかの採用に分かれるようです。
明智軍記』は夢占い+55歳説を、『綿考輯録』は57歳説を採用していることはよく知られています。

ただこのような江戸中期の文献は当時の先行文献に従っているだけなので、内容を検討してもあまり意味がないように思います。

55歳説のもとは光秀の子、玄琳による明智系図ですが、どこまで信憑性があるのか難しい材料です。ただこれくらいの歳だったのかな、と判断することはできます。

 

個人的には57歳説が気になります。本能寺の変翌年に生まれた林羅山と息子の林鵞峰という江戸初期の学者が認識していた年齢であれば可能性は高いと思われます。
織田信長譜』は軍記物であり内容は物語ですが、敢えて実際と異なる年齢を書くとは思えないのです。

これまでに読んだ光秀関連の研究本で、『織田信長譜』をもとにした57歳説は目にしたことがありません。古い記録で面白いのですが、なぜ研究者は触れないのでしょうかね。

『当代記』の松平忠明(この人物が作者であればですが)も本能寺の変の翌年生まれだそうです。
光秀が「老人」との記述はこの『当代記』以外にも古い文献に見られることから、67歳説(先行研究は谷口克広氏)も可能性はあると思います。
ただ57歳でも当時は「老人」に含まれそうですし、見た目年齢の判断もあったでしょうね。

様々な考え方ができるので難しいところです。